第87話 反転する軌道と戦士の在り方
重厚な地響きとともに、巨大な鋼殻の移動要塞が大きくその軌道を変える。
これまで北東の獣人たちの霊峰へ向けて刻まれていた深い轍が、真南に位置する人間の国境都市へと向かって、新たに荒野の大地を削り出し始めた。
「がはははっ! ヒュドラの魔石の出力は絶好調だ! このまま最高速度でぶっ飛ばせば、数日のうちに人間の都市圏に到達できるぜ!」
操縦席で巨大な舵輪を握るバルガンが、油に塗れた顔で豪快に笑い声を上げる。
「だが、相手は魔力そのものを喰らう影の軍勢だ。要塞の絶対防壁結界も、ただ張っているだけじゃ奴らの影に浸食されるかもしれねえ。移動しながら結界の波長を物理障壁寄りに調整し直してやる。大将たちが戦うための最高の城は、この俺がきっちり護り抜いてやるから安心しな!」
頼もしいドワーフの背中を見つめながら、居住区画では次なる激戦に向けた静かな準備が進められていた。
「さあ、大将! 特製の飯ができたぜ!」
バクスが厨房から顔を出し、湯気を立てる巨大な大皿をテーブルの中央にドンと置いた。
本日のメニューは、以前仕留めた巨大な魔猪の分厚いリブロースを、霊峰の麓で採取したばかりの「火食い鳥の卵」と数種類の薬草でとじた、特大のスタミナ丼だった。
「これから向かうのは、見えねえ影から不意打ちを仕掛けてくる陰湿な連中の懐だ。神経を極限まで研ぎ澄ませる必要がある。この火食い鳥の卵には、一時的に動体視力を引き上げ、脳内の情報処理速度を跳ね上げる成分が含まれてる。それに、魔猪の分厚い肉は、大将の筋肉の繊維をさらに強靭に編み直す最高のタンパク源だ。残さず食って、あの気味の悪いエルフどもをぶっ飛ばすためのエネルギーに変えてくれ!」
バクスの熱い言葉に頷き、ヴァンは木製のスプーンで豪快に丼を掻き込んだ。
濃厚な卵の甘みと、薬草のピリッとした刺激、そして噛みしめるほどに溢れ出す野性味あふれる肉汁が、口の中で完璧な調和を生み出す。嚥下した瞬間から、胃の腑がカッと熱くなり、指先から足の先まで、膨大な活力が血流に乗って駆け巡っていくのがはっきりと分かった。
「美味い。……体が内側から燃えるように熱い。これなら、どれだけ強力な魂を降ろしても、器が揺らぐことはない」
ヴァンが静かに、しかし確かな力強さを持って言うと、バクスは尻尾を揺らして満足そうに笑った。
食後、ヴァンはテーブルの片隅に座り、無言で愛用の斬馬刀の手入れを始めた。
布に油を染み込ませ、漆黒の刀身を丁寧に拭き上げていく。その無骨で洗練された動作には一切の迷いがなく、ただ研ぎ澄まされた戦士の静けさだけがあった。
「ヴァン……」
向かいの席で羊皮紙の地図を広げていたルミナが、ふと顔を上げて彼を呼んだ。
「本当に、良かったんですか? 人間の国を救うなんて。彼らは、ヴァンさんを無能だと嘲笑い、一番辛い役割を押し付けた挙句に捨てた人たちですよ」
ルミナの問いかけに、ヴァンは手を止めず、刀身を見つめたまま静かに口を開いた。
「俺は、人間たちの国そのものを救うつもりはない。王族にも、勇者パーティーにも、何の未練も感情もない」
刀身に反射するヴァンの瞳は、どこまでも冷徹で、現実的だった。
「俺が救いたいのは、かつての俺と同じように、理不尽な力によって何もできずに虐げられている連中だ。俺は戦士だ。前衛に立ち、武器を振るうことしかできない。だが、俺が前に立つことで、後ろにいる誰かが泣かずに済むのなら……俺は何度でも、この剣を振るう」
それは、勇者パーティーで雑用係として酷使されていた頃から、何一つ変わっていない彼の本質だった。
痛覚を持たない特異体質。普通なら精神が崩壊するほどの痛みを伴う同化召喚に耐えられるのは、単に肉体的な構造の問題だけではない。彼が根底に持つ「他者を護るための自己犠牲の精神」が、常軌を逸するほどに強固だからこそ、彼はあらゆる魂をその身に宿すことができるのだ。
「あなたのその生き方は、あまりにも不器用で、損ばかりしているわ」
セリアがヴァンの隣に腰を下ろし、彼の大きな手に自分の白い手をそっと重ねた。
「でも、だからこそ私はあなたを選んだ。世界中があなたを不要だと言っても、私だけはあなたのその不器用な優しさと、狂気じみた強さを誰よりも理解している」
深い紫色の瞳が、ヴァンを真っ直ぐに見つめ上げる。
「今回は、相手の姿が見えない厄介な戦いになる。でも心配しないで。私の同化召喚で、あなたにあらゆる闇を見通す目と、影すらも切り裂く力を与えてみせるわ。あなたはただ、前だけを見て剣を振るえばいいの」
「ああ、頼む。お前がいなければ、俺はただの頑丈な的でしかないからな」
ヴァンはセリアの目をしっかりと見返し、小さく頷いた。二人の間には、言葉以上の絶対的な信頼が結ばれていた。
「……お二人の世界に入っているところ申し訳ありませんが、現地の最新情報を共有しておきますね」
ルミナが少しだけ頬を赤くしながら咳払いをして、地図の上にいくつか駒を置いた。
「伝書鳥の追加報告によれば、ダークエルフの軍勢は人間の第一防衛線を完全に突破し、主要都市である『城塞都市グリオン』のすぐ手前まで迫っているようです。避難が間に合わなかった数万の市民が都市内に取り残されており、防衛隊の召喚師たちは影の魔法によって次々と無力化されている状態です。あと数日、いや数時間持つかどうか……」
ルミナの報告を聞き、車内の空気が再びピンと張り詰めた。
数万の命が、今まさに音のない暗闇の中で、絶望の淵に立たされている。
「急ごう。バルガン、結界の調整が済み次第、さらに動力を上げられるか?」
ヴァンが立ち上がり、背中に斬馬刀を背負い直す。
「任せとけ! 炉の限界までヒュドラの魔力をぶち込んで、最速で人間の都市に殴り込んでやる!」
バルガンの力強い叫びとともに、移動要塞の排気口から青白い蒸気が勢いよく噴き出した。
車輪の回転数がさらに上がり、巨大な鋼の塊が荒野を一直線に駆け抜けていく。
かつて世界から不要とされ、底辺へと突き落とされた異端者たち。
彼らは今、己の強靭な意志と圧倒的な力を胸に秘め、絶望に呑み込まれようとしている人間の都市を救うため、自ら暗闇の中心へとその足を踏み入れようとしていた。
激突の時は、もう目前に迫っている。




