第86話 届いた凶報と揺れる焚き火
獣人たちの霊峰を目指し、荒野を突き進む鋼殻の移動要塞。
その車内には、今日も暴力的なまでに食欲をそそる香りが充満していた。
「よし、いい感じに煮詰まってきたぜ。今日は霊峰の麓で採れた『痺れキノコ』と、こないだの山狼の骨を三日三晩煮込んだ特製白濁スープだ。痺れキノコは毒抜きを間違えると舌が麻痺するが、俺の技術で完璧に処理すれば、肉体の疲労を強制的にリセットする極上のスパイスに化けるんだ」
厨房で腕を振るうバクスが、大きな木べらで鍋をかき混ぜながら得意げに鼻を鳴らした。
ぐつぐつと音を立てる鍋からは、濃厚な獣骨の旨味と、鼻腔を抜けるような爽やかな香草の匂いが立ち昇っている。戦士不要の世界で虐げられ、荒野を彷徨っていた獣人の料理人は、今やこの移動要塞という絶対的な居場所を得て、その腕を遺憾なく発揮していた。
「がはははっ! さすがバクスだ、操縦席までいい匂いが漂ってきやがる! 早く飯にしてくれ、腹が減ってヒュドラの魔石より先に俺の動力が切れそうだ!」
舵輪を握るバルガンが、振り返らずに大口を開けて笑う。
「バルガンさん、運転中は前を見てください。まったく……でも、本当に美味しそうな匂いですね」
居住区画のテーブルで帳簿をつけていたルミナも、羽ペンを置いてふっと微笑んだ。
ヴァンは無言のまま、手入れを終えた斬馬刀を背中に収め、温かい空気に満ちた車内を見渡した。
かつて勇者パーティーにいた頃は、食事の準備から見張りまで全てを一人で押し付けられ、休む暇など一秒もなかった。しかし今は、それぞれが己の役割を全うし、互いを尊重し合う仲間がいる。セリアもまた、ヴァンの隣で静かに本を読みながら、時折キッチンから漂う香りに目を細めていた。
この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。
誰もがそう思い始めた矢先のことだった。
コンコンッ。
分厚い装甲に覆われた要塞の強化ガラス窓を、外から叩く音がした。
見れば、淡い魔力の光で構成された一羽の小さな鳥が、羽ばたきながら窓の外に滞空している。
「あれは……私の商会が使っている魔法の伝書鳥です。こんな辺境まで飛んでくるなんて、余程の緊急事態のはず……」
ルミナが顔をこわばらせ、窓を少しだけ開けて伝書鳥を迎え入れた。鳥はルミナの指先に止まると、一瞬にして一枚の羊皮紙へと姿を変えた。
ルミナは羊皮紙を広げ、そこに記された暗号文を素早く目で追った。
次の瞬間、彼女の血の気がさっと引き、手にした羊皮紙が微かに震え始めた。
「ルミナ、どうしたの? 顔色が悪いわよ」
セリアが本を閉じ、静かに問いかける。
「……信じられない報告です。人間の国境都市が、次々と陥落していると」
ルミナの絞り出すような声に、車内の空気が一変した。バクスも鍋から手を離し、バルガンも要塞の速度を落として耳を傾ける。
「陥落だと? 相手はどこの国だ?」
ヴァンが短く尋ねた。
「相手は国ではありません。ダークエルフです。沈黙の黒森を統べる王、シュヴァルツが率いる影の軍勢が、人間の領土へ大規模な侵攻を開始したそうです。そして……未開拓の森へ侵攻していた勇者レオンたちのパーティーは、シュヴァルツの罠に落ち、魔力と召喚術を完全に喪失。社会の底辺へと転落し、壊滅状態にあるとのことです」
勇者パーティーの壊滅。
かつてヴァンを無能と嘲笑い、理不尽に追放したかつての同級生たちの末路。
しかし、ヴァンの心に湧き上がったのは、復讐を果たしたような喜びでも、ざまぁみろという嘲笑でもなかった。ただ、冷徹なまでの現実認識だけだった。
「……召喚師に依存しきった人間の軍隊では、魔力を封じるダークエルフの搦め手には太刀打ちできない。勇者パーティーが敗れたのなら、他の召喚師たちも無力化され、一方的な虐殺が起きているはずだ」
ヴァンの重い言葉に、ルミナが辛そうに頷いた。
「はい。視覚も聴覚も奪われ、魔法を発動する前に影に飲み込まれていくそうです。防衛戦力を持たない一般の市民たちも、逃げることすらできずに次々と……」
その日の夜。
一行は安全な岩場に要塞を停め、外に焚き火を起こした。
バクスの作った極上のスープはいつも通り美味しかったはずだが、誰もが無言のまま匙を動かしていた。パチパチと薪が爆ぜる音だけが、静寂に包まれた夜の荒野に響いている。
ヴァンは、揺らめく炎をじっと見つめていた。
彼の内面では、静かな、しかし激しい葛藤が渦巻いていた。
自分を不要だと切り捨てた人間たち。戦士という職業を時代遅れのゴミだと見下し、スラムに追いやった社会。
そんな国がどうなろうと、自分には関係のないことだ。今はもう、自分には護るべき大切な仲間がいて、共に目指す新しい国という途方もない夢がある。これ以上、かつてのしがらみに首を突っ込むのは、現実的な判断とは言えない。
見捨ててしまえばいい。彼らが自らの傲慢さで招いた結果だ。
しかし。
炎の揺らめきの向こう側に、ヴァンの脳裏には別の光景が浮かび上がっていた。
都市の片隅で、安いパンを売ってくれた老婆の笑顔。
装備の修理を依頼した時、不器用ながらも一生懸命に槌を振るっていた若い鍛冶屋の徒弟。
路地裏で無邪気に駆け回っていた、名も知らぬ子供たち。
勇者たちのように傲慢な人間ばかりではない。そこには、圧倒的な暴力の前になす術もなく震えるしかない、罪のない普通の人々が確かに生きているのだ。
痛覚を持たない彼が、なぜ雑用係として誰よりも傷だらけになりながら、勇者パーティーの盾として立ち続けたのか。
それは、彼が根っからの戦士だったからだ。
誰かを護るために剣を振り、理 হত্যারな暴力から弱者を庇う。その自己犠牲の精神こそが、ヴァン・アッシュクロフトという男の魂の根幹であった。
「……優しいのね、ヴァンは」
隣に座っていたセリアが、焚き火の光に照らされたヴァンの横顔を見つめながら、ぽつりと呟いた。彼女の深い紫色の瞳は、ヴァンの内面にある葛藤をすべて見透かしているようだった。
「人間の国に、あなたを縛る義理なんて一つもないのに。あなたは今、見も知らぬ誰かのために剣を抜こうか迷っている」
ヴァンの肩が、微かに揺れた。
「大将。俺たちは、社会の底辺から拾われた身だ」
バクスが、空になった木皿を置きながら真剣な声で言った。
「人間どもの国がどうなろうと知ったこっちゃねえ。だが、理不尽な力で弱ぇ奴らが理不尽に殺されていくのを黙って見てるような大将なら、俺は最初からアンタについてきてねえよ」
「がはははっ! 全くバクスの言う通りだ! どんなに酷い国だろうが、そこに住んでる連中全員が悪党ってわけじゃねえ。俺たちの目指す『誰もが笑って暮らせる国』ってのは、目の前の泣いてる奴を見捨てるような土台の上には建たねえだろ!」
バルガンが豪快に笑いながら、残っていた右腕でヴァンの背中を力強く叩いた。
「私も、同意見です。悪徳商会に搾取されていた私を、あなたたちは損得抜きで救ってくれました。今度は私たちが、理不尽に抗う番です」
ルミナも、強い意志を秘めた瞳でヴァンを見つめた。
仲間たちの言葉が、ヴァンの胸の奥に燻っていた迷いを完全に吹き飛ばした。
彼らは、自分を無能だと嘲笑ったかつての同級生たちとは違う。本当の意味で、背中を預けられる絶対の仲間だ。
ヴァンはゆっくりと立ち上がり、背中の斬馬刀の柄を強く握りしめた。
「……俺たちは、どこの国にも属さない。人間たちの国を救うためでも、王に忠誠を誓うためでもない」
ヴァンは焚き火の向こう、遠く南の空に広がる見えざる闇を真っ直ぐに睨み据えた。
「だが、理不尽な暴力で罪のない命が奪われるのを、俺は見過ごすことができない。ダークエルフを討つ。シュヴァルツの影を切り裂き、この理不尽な虐殺を俺の剣で終わらせる」
そのヴァンの決断に、仲間たちは誰一人として反対しなかった。
セリアが静かに立ち上がり、ヴァンの隣に並んで微笑む。
「ええ。あなたのその優しい心が決めた道なら、私はどこまでも付き合うわ。私の同化召喚で、あなたの器に最強の力を降ろしてみせる」
夜の静寂の中、焚き火の炎がひときわ熱く、力強く燃え上がった。
獣人たちの霊峰へ向かう予定を急遽変更し、一行は絶望に包まれた人間の都市へと進路を反転させる。
かつて不要とされ追放された戦士が、誰の命令でもなく、己自身の確かな意志で、真の英雄としての戦いへと足を踏み出した瞬間であった。




