第85話 侵蝕される都市と這いつくばる敗者
国境都市の裏路地で、勇者パーティーであった三人は生ゴミの山を漁っていた。
泥と汚水に塗れ、悪臭を放つ彼らの姿に、かつて王都で歓声を浴びていた栄光の面影は微塵もない。
数日前まで、彼らは最高級の宿で豪勢な肉を平らげ、極上のワインを水のように飲み干していた。しかし魔力を失い、すべての財産をゴロツキに奪われた今、彼らの胃袋を満たすのは、酒場の裏口に捨てられた腐りかけの残飯だけだった。
「うっ……おえぇっ……!」
リーゼが酸い臭いを放つパンの切れ端を口に運んだ瞬間、激しい吐き気に襲われて泥水の中に胃液をぶちまけた。
「嫌だ……こんなの、もう嫌……! ヴァン、どこなの……早く、温かいスープを作ってよ……私、もう歩けない……」
彼女の精神は、限界をとうに超えていた。焦点の合わない瞳で虚空を見つめ、自分を甘やかしてくれる幻の庇護者に向かって、永遠に届かない懇願を繰り返している。
「黙れ、リーゼ……! その名前を二度と口にするなッ!」
レオンが血走った目で怒鳴りつけた。彼の顔はゴロツキに殴られた痣でどす黒く腫れ上がり、かつての端正な顔立ちは見る影もない。
彼は震える手で腐った果実を拾い上げ、無理やり喉に押し込んだ。泥の味しかしないそれを飲み込むたび、惨めさと屈辱が彼のプライドを内側からズタズタに切り裂いていく。
「(なぜだ……なぜ俺がこんな目に遭わなければならない! 俺は大英雄レオンだぞ! 選ばれた天才だぞ!)」
心の中でどれほど叫ぼうと、現実は残酷だった。魔力という絶対的な特権を失った彼らは、ただの非力で無能な浮浪者に過ぎない。キースに至っては、現実逃避するように膝を抱え、壁に向かってぶつぶつと意味不明な魔力計算式の暗唱を繰り返す廃人と化していた。
その時だった。
都市の中央にそびえる見張り塔から、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
カンッ、カンッ、カンッ……!
「何だ……? 魔物の襲撃か?」
レオンがビクッと肩を震わせ、路地裏の影から表通りの様子を窺った。
表通りでは、都市の防衛を担う衛兵や、ギルドに所属する召喚師たちが慌ただしく武器を手に走り回っていた。
「南の門が破られたぞ! ダークエルフの群れだ!」
「結界を張れ! 召喚師部隊、前線へ急げ! 奴らを都市の中に入れるな!」
怒号が飛び交う中、数十人の召喚師たちが一斉に魔力を練り上げ、防壁の上から無数の魔法陣を展開しようとした。炎の精霊、岩の巨人、風の魔獣。強力な召喚獣たちが次々と姿を現し、夜の闇を照らし出そうとする。
それを見たレオンの心に、ほんのわずかな希望がよぎった。
「(そうだ、やれ……! あの忌々しいエルフどもを焼き尽くせ! そうすれば、俺たちもまた……)」
しかし、レオンの淡い期待は、次の瞬間、絶望的な光景によって完全に粉砕された。
――ふっ、と。
都市の南側から、まるで巨大な黒い幕が下ろされたかのように、一切の「音」が消失したのだ。
燃え盛る炎の爆ぜる音も、巨人が大地を踏み鳴らす音も、召喚師たちの勇ましい怒号も、警鐘の響きすらも、世界から完全に切り取られた。
「あ……?」
レオンは目を見開いた。彼が「沈黙の黒森」で味わった、あの根源的な恐怖。音を奪い、光を奪い、魔力そのものを喰らい尽くす「影」の侵食が、この巨大な都市全体を呑み込もうとしていたのだ。
音のない表通りで、凄惨な蹂躙が始まった。
召喚師たちが展開した魔法陣は、足元から不自然に伸び上がってきた黒い影によって、発動する前に次々と塗りつぶされていく。
炎の精霊は影の茨に絡みつかれ、一瞬にして魔力の霧となって霧散した。岩の巨人は足元から影の沼に引きずり込まれ、音もなく沈んでいく。
「(逃げろ……! 魔法なんかじゃ、あいつらには勝てないッ!)」
レオンは声にならない絶叫を上げながら、路地裏の生ゴミの陰に身を潜め、ガタガタと震え上がった。
見えざる敵の強襲。
ダークエルフたちは姿を見せることすらなく、ただ街灯や建物の影を操り、人間の召喚師たちの魔力回路を物理的に塞いでいった。
強力な魔法に頼りきり、基礎的な身体能力の鍛錬を怠っていた人間の兵士や召喚師たちは、魔法を無効化された瞬間、ただの的へと成り下がった。首筋に影の刃を突き立てられ、あるいは足首を掴まれて暗闇の底へと引きずり込まれていく。
血飛沫が舞い、無数の人々が断末魔の表情を浮かべて倒れていくが、その悲鳴すらも「沈黙の領域」によって完全に封殺されていた。
まさに、一方的な虐殺だった。
圧倒的な火力を持っていれば世界を支配できると信じて疑わなかった人間の傲慢さが、今、ダークエルフの陰湿で残酷な搦め手の前に、紙切れのように破り捨てられていく。
「ヒッ……ア、アアァァ……ッ」
レオンは汚水の中に顔を埋め、両手で頭を抱えて震え続けた。
かつてヴァンが担っていた、敵の奇襲を物理的に防ぐ盾。魔法が発動するまでの時間を稼いでくれる前衛。その存在の価値を一切理解せず、ただ魔法の火力を絶対視していた結果がこれだ。
盾を持たない召喚師たちの末路は、レオンたち自身が森で味わった絶望と全く同じだった。
「いやだ……死にたくない、死にたくないッ……!」
リーゼがレオンの背中にすがりつき、音のない世界で狂ったように泣き叫ぶ。
キースはもはや現実から目を背け、生ゴミの山に顔を埋めてピクリとも動かなくなった。
彼らの目の前で、都市の堅牢な防壁が音もなく崩れ落ち、完全な漆黒が表通りを覆い尽くしていく。
金と名声を求め、他者を見下し続けてきた勇者たちの栄光は、今や完全に剥奪された。
彼らに残されたのは、かつて底辺のゴミと嘲笑った男の幻影にすがりながら、暗黒に呑み込まれる世界の中で、ただ惨めに震えて這いつくばることだけだった。
世界は、圧倒的な絶望の渦へと引きずり込まれていく。
この理不尽な影の呪縛を断ち斬ることができるのは、召喚師の常識など通用しない、ただの「戦士」の剣だけであった。




