第84話 泥に塗れた誇りと底辺の現実
冷たい汚水と生ゴミの腐臭が混ざり合う路地裏。
レオンは、泥水の中に顔を突っ込んだまま、しばらく動くことができなかった。
腹部を蹴り上げられた激痛が、いつまでも波のように押し寄せてくる。かつて強力な結界や防壁魔法に守られ続けていた彼にとって、他者から直接的な「暴力」を振るわれるという経験は、生まれて初めてのことだった。
口の中に広がる鉄錆のような血の味と、泥のじゃりっとした感触。吐き気を催す悪臭。
「う、あ……ぐっ……」
レオンは震える両腕で地面を押し、ようやく上体を起こした。
かつて白銀に輝いていた最高級の鎧はダークエルフの影に引き裂かれて失われ、下に着ていた絹の衣服も今やすっかり泥に染まり、ボロ布と化している。
隣では、リーゼが汚水に浸かった自分の特注のドレスを見て、声にならない悲鳴を上げながらガタガタと震えていた。
「嘘よ……こんなの、嘘よ……。誰か、早くお湯を沸かして……綺麗な着替えを……」
現実を受け入れられない彼女の虚ろな呟きが、薄暗い路地裏に虚しく響く。しかし、彼女の我儘を聞いて、すぐに温かい湯と清潔な布を用意してくれた男は、もうこのパーティーにはいない。
「レオン、リーゼ……ここから早く離れないと、まずいです……」
キースが壁に寄りかかりながら、青ざめた顔で周囲を窺っていた。彼の声はかつての計算高い冷徹さを完全に失い、ただの怯えに満ちている。
「魔力を持たない我々が、こんな上等な装飾品を身につけたままスラムに長居すれば……間違いなく『狩られ』ます」
キースの警告は、残酷なまでに的中した。
路地裏の奥から、下劣な笑いを浮かべた数人の男たちが現れたのだ。彼らはスラムを根城にするならず者たちだった。
「おいおい、表通りからずいぶんと上等な鳥が落ちてきたじゃねえか。服は泥だらけだが、腰に下げてるその剣の柄……本物の金細工だな?」
リーダー格の男が、レオンの腰にある飾りの剣に汚い手を伸ばしてきた。
「気安く触るな、下民がッ!」
レオンは反射的に男の手を払い除けようとした。勇者としての驕りが、相手の身なりを見て無意識に見下したのだ。
しかし、魔力による身体強化を失ったレオンの動きは、スラムで日々生き抜いているゴロツキからすれば、止まっているも同然の鈍さだった。
「あぁ?」
男はあっさりとレオンの腕を掴み、そのまま容赦なく彼の顔面へと硬い拳を叩き込んだ。
ゴッ、という鈍い音が響き、レオンの鼻梁から鮮血が噴き出す。
「あぐっ……!?」
そのまま地面に叩きつけられ、男たちは容赦なくレオンの腹や背中を何度も蹴りつけ始めた。
「何が下民だ! 魔力もねえヒョロガリが偉そうに口答えしてんじゃねえぞ!」
「ひぃっ、や、やめて!」
「おっと、嬢ちゃんもいいもん着けてるじゃねえか。その首飾りも置いていきな」
悲鳴を上げるリーゼの首から、乱暴に宝石のネックレスが引きちぎられる。キースは恐怖のあまり声も出せず、ただ頭を抱えて壁際でうずくまることしかできなかった。
数分後。
ゴロツキたちが去った後の路地裏には、身ぐるみを剥がされ、ボロボロになってうずくまる三人の姿だけが残されていた。
飾りの剣も、宝石も、金目のものはすべて奪われた。彼らに残されたのは、泥に塗れた破れかけの衣服と、全身を苛む暴力の痛みだけだ。
日が落ち、国境都市の夜は急激に冷え込み始めた。
冷たい夜風が、濡れた衣服を通して容赦なく彼らの体温を奪っていく。さらに、胃袋が裏返るような激しい空腹感が彼らを襲う。
魔力があった頃は、基礎代謝が魔法で補われていたため、これほど急激に飢えと寒さを感じることはなかった。それに何より、彼らが空腹を訴える前に、必ずヴァンが完璧なタイミングで温かい食事を用意してくれていたのだ。
「寒い……お腹すいた……」
リーゼが膝を抱え、涙と泥で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣きじゃくる。
「ヴァン……ヴァン……助けて……いつもみたいに、焚き火を起こして……温かいスープを……」
「その名前を、出すな……ッ!」
レオンが血の混じった唾を吐き捨て、ギリッと歯を鳴らした。
彼の瞳には、己の慢心と無警戒さを悔いる色は一切なく、ただどす黒い逆恨みの炎だけが宿っていた。
「あの無能が……俺たちのパーティーから逃げ出したから、こんなことになったんだ……! あいつが今まで通り俺たちの身の回りの世話と索敵を完璧にこなしていれば、俺は……大英雄の俺は、こんな目に遭うことはなかったんだ!」
自らの強欲さでダークエルフの罠に突っ込んだという致命的な事実から目を背け、すべての責任を不在のヴァンへと転嫁する。キースもまた、反論することなく沈黙し、自身の非を認めようとはしなかった。
かつて栄光を極めた勇者たちは、いまやスラムの泥水を啜るどん底に落ちながらも、己の醜い虚栄心と他者への憎悪だけを無様に肥大化させていく。
だが、彼らが路地裏で惨めに飢えと寒さに震えている間にも、世界は確実な絶望に向けて動き出していた。
都市の表通りを足早に歩く商人や傭兵たちの間から、不穏な噂が漏れ聞こえてくる。
「おい、聞いたか……。南の国境砦との連絡が、今日の昼から完全に途絶えたらしいぞ」
「ああ、ダークエルフの奴らが森を出て、ついに人間の領土へ侵攻を始めたって話だ。討伐に向かった勇者パーティーも全滅したらしいじゃねえか」
「マジかよ……。召喚師の魔法が一切通用しねえ、魔力そのものを奪う影の化け物だって噂だぞ。この街もいつまで持つか……」
勇者たちが失墜し、最強の矛を失った人間の国家。
そこに、視覚も聴覚も魔力も封じ込める、シュヴァルツ率いるダークエルフの影が、音もなく、しかし確実に忍び寄っていた。
絶対的な防衛力を持たない市民たちは、見えざる敵の存在に怯え、恐怖のどん底に突き落とされようとしている。世界は今、かつてない暗闇の時代へと突入しようとしていた。




