第83話 泥濘への転落と砕け散った虚栄
「沈黙の黒森」の奥深く、底なしの暗闇の中で永遠とも思える時間が過ぎていった。
体内の魔力回路に深く突き刺さった影の茨が、レオンたちの魂から最後の一滴まで魔力を吸い尽くしていく。
やがて、致死量スレスレの激痛が限界に達し、三人の意識が完全に暗転する直前。
頭蓋を直接揺るがすシュヴァルツの冷酷な声が、彼らへの餞として響いた。
『我らダークエルフの糧となったこと、誇りに思うがいい。貴様らにはもう、指先を灯すほどの魔力すら残されてはいない。その脆弱な肉体で、せいぜい惨めに地を這い、無力に泣き叫びながら生き恥を晒すのだな』
その言葉を最後に、万力のように彼らを地面に縫い付けていた影の拘束が、ふっと嘘のように解けた。
同時に、奪われていた視覚と聴覚が暴力的なまでに回復する。
「ガハッ……! ア、アアアァァッ!」
泥水に顔を突っ伏していたレオンが、肺を焼かれるような感覚と共に激しく咽び泣きながら跳ね起きた。
目を開ければ、そこはもはや鬱蒼とした黒き森の奥深くではなかった。シュヴァルツの影の魔法によって、彼らは森の境界線の外、荒涼とした国境沿いの岩場へとボロ布のように吐き出されていたのだ。
「ハァッ……ハァッ……お、俺は、生きている……?」
全身は泥に塗れ、最高級の素材で設えられていた勇者の衣服は無残に引き裂かれている。
隣を見ると、リーゼもキースも同じように泥まみれで倒れ、生ける屍のように虚ろな目で宙を見つめていた。
「キース! リーゼ! 立て! あの忌々しいエルフども、絶対に許さん……! 結界の外に出たのなら、こっちのものだ!」
レオンは怒りで顔を真っ赤に腫れ上がらせ、震える足でどうにか立ち上がった。
「俺から魔力を奪い尽くしただと? ふざけるな。俺は神に選ばれた大英雄レオンだ! 底なしの魔力を持つ、至高の存在だぞ!」
レオンは虚空に向けて右手を突き出し、ありったけの怒りと憎悪を込めて叫んだ。
「出でよ、聖騎士ッ!! あの森を、エルフどもを、光の槍で欠片も残さず焼き払えェェェッ!」
彼の絶叫が、荒涼とした岩場に虚しく木霊する。
数秒が経過した。
しかし、何も起きない。
光の魔法陣が展開されることも、空間が歪むことも、黄金の翼が空を覆うこともない。ただ、冷たい風が泥まみれのレオンの体を吹き抜けていくだけだった。
「な……ぜだ……? 出ろ……出ろォォォッ!」
レオンは何度も、何度も右手を振り上げ、声を枯らして喚き散らした。しかし、彼の体からは、シュヴァルツの言う通り指先を灯すほどの魔力すら感じられなかった。
魔力回路そのものが、物理的に破壊され、枯渇しきっているのだ。
「無駄ですよ、レオン……。もう、終わったんです……」
キースが、割れた眼鏡の奥から絶望に染まった瞳を向け、掠れた声で呟いた。
「私の体の中の……魔力を練り上げるための器が、完全に砕け散っているのが分かる。回復魔法だろうが、神官の祈りだろうが、決して治ることはない。私たちは、完全に魔力を失ったんです。一生、ただの人間として……いや、剣すら振れない、底辺のゴミとして生きていくしかないんですよ……!」
「嘘よ……嘘よ嘘よ嘘よッ!」
リーゼが泥だらけの髪を掻き毟り、発狂したように金切り声を上げた。
「私が、精霊召喚師の私が、ただの人間になった!? そんなの認めない! 私は誰よりも美しくて、誰よりも強いはずなのよ! こんな泥水に塗れて這いつくばるなんて、私の人生に許されるわけないじゃないッ!」
彼女は手元に転がっていた真紅の杖を手に取り、無茶苦茶に振り回した。しかし、そこからは小さな火の粉一つ出ない。魔力を流し込まれなくなった杖は、ただの脆い木の棒に過ぎず、岩に叩きつけられた拍子にあっけなくへし折れてしまった。
「あ……あぁ……」
折れた杖を見つめ、リーゼはその場に崩れ落ち、ついに子供のように泣きじゃくり始めた。
魔力こそが人間の価値のすべて。
彼ら自身が誰よりもそう信じ、強者として他者を、そしてヴァンを嘲笑い、踏みにじってきた。
だからこそ、彼らは理解していた。魔力を失った自分たちが、この世界においてどれほど無価値で、惨めな存在に成り下がるのかを。
「認めない……俺は勇者だ。王都に帰れば……そうだ、王都に帰れば、すぐに最高の治療を受けられる。俺は英雄なんだぞ……!」
レオンはうわ言のように呟きながら、国境の都市へ向かってふらふらと歩き出した。
しかし、その足取りは絶望的なまでに重かった。
召喚獣に頼りきり、一切の肉体労働をしてこなかった彼らの筋力と体力は、魔力という補正を失った瞬間、残酷なまでにその脆弱さを露呈した。
転がっている石につまずくだけで足首を捻り、少し歩いただけで息が上がり、膝が笑う。
かつてヴァンが、彼らの数倍の重さの野営道具と武器を一人で背負い、魔物を警戒しながら休むことなく歩き続けていたこの道を、彼らは手ぶらであるにもかかわらず、何度も泥水の中に倒れ込みながら、這うようにして進むしかなかった。
丸一日をかけ、死に物狂いで最寄りの国境都市に辿り着いた時、彼らの姿は、スラムに住む最下層の乞食にしか見えなかった。
「おい、何だあの薄汚い連中。スラムの浮浪者が表通りに出てきやがったぞ」
「近寄るな、泥と汗でひどい悪臭だ。衛兵を呼んで追い払ってもらえ」
都市の入り口で、すれ違う市民たちが露骨に顔をしかめ、蔑みの目を向けてくる。
それはつい先日まで、勇者パーティーとして凱旋する彼らに熱狂的な歓声と拍手を送っていた同じ市民たちの姿だった。
「貴様ら……俺を誰だと思っている! 俺は勇者レオンだぞ! ギルド長を呼べ! 俺に触れるなッ!」
レオンが威嚇するように叫ぶが、その声に魔力による威圧感は一切なく、ただの哀れな浮浪者の遠吠えにしか聞こえなかった。
「勇者レオンだと? ははっ、頭でも打ったのか、この乞食が」
見回りをしていた恰幅の良い衛兵が、鼻で笑いながらレオンの腹を蹴り上げた。
「ぐえっ……!」
魔力による防御膜もない素の肉体に、衛兵の容赦ない蹴りが直撃する。レオンはカエルのように無様な声を上げ、路地裏の汚水溜まりの中へと吹き飛ばされた。
リーゼもキースも、その場にへたり込んだまま、助けに入ることもできずにただ震えている。
「あの偉大なる勇者様が、こんな薄汚い泥まみれで、しかも魔力の欠片も感じられないただの人間なわけがあるか。さっさとスラムに引っ込んでろ。次に表通りに出たら、その手足を叩き折ってやるからな」
衛兵の冷酷な言葉が、レオンの心に最後の一撃として突き刺さった。
汚水溜まりの中で咳き込みながら、レオンは自分の震える両手を見つめた。
誰も自分たちを助けてはくれない。誰も自分たちを敬ってはくれない。
魔力を失い、圧倒的な力というメッキが剥がれ落ちた彼らには、もはや社会のどこにも居場所はなかった。
かつて底辺のゴミと見下していたヴァンと全く同じ、いや、自活する力すら持たない彼らは、それ以下の絶望的な泥濘の中へと、完全に転落したのである。




