第82話 剥奪される栄光と底無しの絶望
鬱蒼と生い茂る「沈黙の黒森」の奥深くへ、勇者パーティーの三人は無警戒な足取りで進んでいく。
先頭を歩くレオンは、周囲の異様な静けさにわずかな違和感を覚え始めていたが、それを持ち前の傲慢さでかき消していた。後方を歩くキースの探知魔法が何も警告を発しない以上、ここは安全なのだと盲信していたからだ。
しかし、彼らがさらに十数歩進んだその時だった。
「ちょっと、キース。本当にこの道で合ってるの? さっきから足元の泥がひどくて、私の特注のドレスが……きゃっ!?」
不満を漏らしていたリーゼの足首に、突如として真っ黒な泥のようなものが絡みついた。
いや、泥ではない。それは彼女自身の足元に落ちていた「影」だった。木々が日光を遮り、はっきりとした光の差し込まない薄暗い森の中で、その影はまるで明確な意思を持った生き物のように隆起し、彼女の細い脚を力強く這い上がってきたのだ。
「リーゼ? どうし……な、なんだこれは!」
レオンが振り返り、声を上げようとした瞬間、彼自身の影もまた不自然に伸び上がり、手首と首筋に重く冷たい拘束具となって巻き付いた。
「キース! 結界だ! 早く結界を張れ!」
レオンは反射的に怒鳴り声を上げた。しかし、その声が森に響くことはなかった。
ふっ、と風の音が消えた。落ち葉を踏む音も、自らの衣擦れの音も、そして腹の底から張り上げたはずの怒声すらも、一切の音が彼らの周囲から完全に消失したのだ。
絶対的な無音。
何が起きているのか理解できず、レオンはキースの方を振り向いた。そこにいたのは、恐怖に顔を引き攣らせ、無数の黒い影の手によって地面に引き倒されているキースの姿だった。彼が安全の根拠として頼りにしていた探知用の魔導盤は、影に包み込まれた瞬間に音もなく粉々に砕け散っていた。
異常は音だけではない。周囲の空間から、急速に光が失われていく。
木々の隙間からわずかに差し込んでいたはずの薄明かりすらも這い寄る影に飲み込まれ、視界が完全に黒一色へと塗りつぶされていく。
(なんだ!? なんなんだこれは! 俺の目が見えない! 声も出ない!)
レオンはパニックに陥り、必死に腕を振り払おうとした。しかし、召喚獣の力に頼り切り、日頃から剣を振るうことも荷物を背負って歩くことも怠ってきた彼の貧弱な筋力では、物理的に絡みつく影の拘束をわずかに解くことすらできない。
かつてパーティーには、見通しの悪い森で真っ先に斥候に出る戦士がいた。不自然な魔力の気配や地形の変化を鋭い観察眼で見抜き、彼らが安全に魔法を詠唱できる絶対の距離を確保してくれていた男がいた。
しかし、その「雑用係」を自分たちの手で不要だと切り捨てた今、彼らには敵の罠を事前に察知する目も、奇襲を物理的に防ぐ盾も存在しないのだ。
(離れろ! 俺に触れるな! 出でよ、聖騎士ッ!)
レオンは極度の恐怖から逃れるため、己の存在意義のすべてである最強の召喚獣を喚び出そうと、意識を集中して魔力を練り上げようとした。
だが、虚空に魔法陣は構築されない。召喚の光も溢れない。
(なぜだ!? なぜ魔力が練れない!)
レオンが絶望に目を見開いた時、絶対の無音空間であるはずの彼の脳内に、直接、頭蓋骨を内側から震わせるような冷酷な声が響き渡った。
『己の影に魔力回路を物理的に塞がれていることすら気づかぬか。全く、人間の召喚師というのは滑稽なほどに脆弱だな』
闇の奥から、周囲の漆黒を束ねて人の形に固めたような長身の男が音もなく歩み出てくる。
黒曜石のような肌に、白銀の長髪。そして、無力な獲物を嘲笑うかのように見下ろす冷酷な黄金の瞳。ダークエルフの王、シュヴァルツであった。
『圧倒的な火力を召喚するだけで、自らの肉体を鍛えることすら放棄した愚者ども。安全な結界の内側から世界を支配した気になっていたようだが、魔力を封じられれば、貴様らはその辺のゴブリン以下のひ弱な肉塊に過ぎん』
シュヴァルツが指先を軽く動かすと、レオン、リーゼ、キースの三人を縛り付けていた影が一斉に収縮し、彼らを冷たく湿った腐葉土の上へと力任せに引き倒した。
泥に顔を押し付けられ、無様に這いつくばらされる勇者たち。彼らがどれほど必死にもがいても、シュヴァルツの影は万力のように三人を地面に縫い付けて離さない。
(あり得ない……! 私の絶対防壁結界が、展開の詠唱すら間に合わないなんて……!)
泥の中で、キースの計算高い頭脳は完全に許容量を超え、崩壊しかけていた。彼らの戦術は、ヴァンという強靭な前衛が敵の攻撃を一身に引き受け、時間を稼いでいる間に強力な魔法を準備するという前提の上にのみ成り立っていた。その盾を自ら捨てた時点で、彼らの奇襲への耐性はゼロに等しかったのだ。今更その致命的な事実に気づいたところで、何もかもが遅すぎた。
(やめろ……! 俺は大英雄レオンだぞ! こんな薄汚いエルフの罠などで……っ!)
レオンの心の叫びを、シュヴァルツは冷笑で切り捨てた。
『その不快なまでに膨れ上がった魔力、我らダークエルフの糧として残らず絞り尽くしてくれよう』
シュヴァルツの宣告と同時に、彼らの皮膚に張り付いていた影が、無数の棘となって体内の魔力回路へと深く突き刺さった。
(ガ、アアアァァァァァァッ!?)
声にならない絶叫が、レオンの脳内で弾けた。
肉体を刃物で切り裂かれるのとは次元が違う。魂の根幹である魔力を、強引に根こそぎ引き剥がされ、すり潰されるような想像を絶する激痛。
まるで血管を直接引き抜かれるような感覚の中、レオンの体から黄金の光が、リーゼの体から真紅の光が、キースの体から蒼い光が、それぞれ影の蔦を通じてシュヴァルツの足元へと吸い込まれていく。
すぐ隣の闇の中では、リーゼとキースもまた、同じように白目を剥いて痙攣し、絶望と苦痛の中で身をよじっていた。彼らが誇り、他者を見下すための拠り所としていた力と技術が、砂の城が崩れるように音を立てて消滅していく。魔力を完全に喪失するということは、この世界における特権階級としての身分も、富も、そのすべてを失うことを意味していた。
(助けて……! 誰か、ヴァン……! ヴァン、どこにいるの! 私を守ってよ……ッ!)
激痛の中で精神が錯乱しかけたリーゼは、自分が無能だと罵り追放した戦士の姿を幻視し、心の中で必死に助けを求めた。
どんな過酷な状況でも、必ず前に立って自分たちを守り抜いてくれたあの無骨な背中。しかし、どれほど泣き叫ぼうとも、もう彼が助けに来ることはない。
音を奪われ、光を奪われ、そして今、存在価値のすべてであった魔力をも完全に剥奪された。
果てしない強欲と自尊心のままに傲慢の限りを尽くしてきた勇者パーティーの栄光は、この冷たい泥の中で完全に潰えた。彼らに残されたのは、かつてヴァンに与えた以上の残酷な喪失感と、社会の底辺へと転落していく底無しの絶望だけであった。




