第9話 命を繋ぐ泥まみれの腕
洞穴の外では、夜通し降り続く冷たい雨が、森の木々を容赦なく打ち据えていた。
漆黒の闇の中、ヴァンは岩肌に背を預けたまま、己の腕の中に抱き込んだリーゼの体温変化だけに全神経を集中させていた。数時間が経過しても、彼女の魔力暴走による異常な高熱は一向に下がる気配を見せない。それどころか、時折ビクンと全身を痙攣させ、喉の奥から苦しげな喘鳴を漏らしていた。
ヴァンの肉体もまた、限界に近い状態にあった。
変異種の巨大な触手からリーゼを庇った際に受けた背中の衝撃は、確実に肋骨を数本へし折っていた。呼吸をするたびに、折れた骨の断面が肺の表面を擦り、刃物を突き立てられるような激痛が走る。さらに、瘴気を帯びた泥水が傷口から侵入したせいか、ヴァン自身の体温も危険な領域まで上昇し始めていた。視界の端が時折白く明滅し、意識が遠のきそうになる。
だが、ヴァンは自らの唇を強く噛み破り、その痛覚によって強引に意識を現実に引き戻した。鉄の血の味が口内に広がる。
彼が今ここで倒れれば、腕の中の命は確実に消え去る。ただそれだけの物理的な事実が、ヴァンの心を冷徹なまでに縛り付けていた。
魔力を持たない戦士であるヴァンには、彼女の暴走する魔力回路を魔法で修復してやることはできない。解毒の呪文も、治癒の精霊を呼ぶことも不可能だ。彼にできるのは、底辺の戦士たちが過酷な戦場で培ってきた、泥臭く原始的な生存術だけだった。
ヴァンはわずかに残っていた水袋を取り出すと、自身の口に少量の水を含み、体温で温めた。そして、意識を失い乾ききったリーゼの唇に自らの唇を重ね、少しずつ、ゆっくりと水分を流し込んでいく。冷たい水をそのまま飲ませれば、弱った内臓が痙攣を起こす危険があったからだ。
さらにヴァンは、血と泥にまみれた自身の大きく分厚い手で、リーゼの細い四肢を絶え間なく擦り続けた。魔力は血液と同じように全身の回路を巡っている。末端から中心に向かって強い摩擦と圧力をかけることで、停滞し暴走しようとする魔力の流れを物理的に押し流し、散らすための荒療治だった。
彼女の高貴で白い肌が、ヴァンの無骨な手によって赤く擦れ、泥の汚れが移っていく。かつての彼女が見れば、悲鳴を上げて嫌悪したであろう行為だ。しかし、ヴァンに躊躇いはなかった。美しさや見栄えなど、生死の境界線においては何の価値も持たない。
「……う、あ……」
リーゼの口から、微かなうわ言が漏れた。彼女の意識は、深く暗い絶望の淵を漂っているようだった。瘴気の冷たさと魔力暴走の熱さに引き裂かれそうになる夢の中で、彼女は必死に助けを求めていた。レオンの放つ眩い光を、キースの安全な結界を。
しかし、夢の中の彼女を包み込んでいたのは、決して高位の魔法の光ではなかった。
ひどく不器用で、泥と鉄と血の匂いがして、けれど火のように温かく、絶対に揺るがない強固な岩のような存在。それが何なのか、意識の底に沈むリーゼには理解できなかった。ただ、その腕の中にいる時だけは、恐ろしい化け物の影も、身体を焼き尽くす痛みも和らいでいくのを感じていた。彼女は無意識のうちに、その泥だらけの温もりを求めてヴァンの胸に顔をすり寄せ、強くしがみついた。
夜明けが近づくにつれ、森を打ち据えていた雨音が次第に弱まっていった。
厚い雲の隙間から、白み始めた朝の光が洞穴の入り口にわずかに差し込む。
ヴァンは霞む目を瞬かせながら、腕の中のリーゼの顔を覗き込んだ。異常だった高熱は下がり、苦痛に歪んでいた表情は穏やかな寝息へと変わっている。頬にはかすかに赤みが戻り、死の淵を完全に脱したことは明らかだった。
荒療治が功を奏したのだ。ヴァンは小さく、本当に小さく安堵の息を吐き出した。
しかし、危機が去ったわけではない。変異種がまだこの森のどこかを徘徊している可能性は高く、リーゼも目を覚ませば再び魔力酔いで動けなくなるだろう。安全な街のギルドまで、急いで彼女を運ばなければならない。
ヴァンはゆっくりと立ち上がろうとした。
その瞬間、膝から力が抜け、危うくその場に崩れ落ちそうになる。一晩中、自身の体温と体力を彼女に分け与え続け、激痛の中で一睡もせずに看病を続けた代償は、屈強な戦士の肉体をも確実に蝕んでいた。
だが、ヴァンは岩壁に手をついて必死に身体を支え、自らの両足で立ち上がった。
洞穴の奥に隠していた残りの荷物を見つめる。巨大な天幕、予備の魔石、高価な保存食の数々。勇者パーティーの生命線とも言える物資だが、今のヴァンの体力と、リーゼを背負って森を抜けるという状況を考えれば、全てを持ち運ぶことは不可能だった。
ヴァンは躊躇なく、それらの荷物をその場に捨て置く決断を下した。彼が手にしたのは、己の身の丈ほどもある無骨な両手剣と、わずかな水袋だけだ。
引き裂いた麻布を使い、まだ眠り続けるリーゼを自らの背中にしっかりと固定する。彼女の柔らかな身体の重みが、折れた肋骨を容赦なく圧迫し、ヴァンの額から脂汗が吹き出した。
「……行くぞ」
誰に言うでもなく低く呟き、ヴァンは洞穴の外へと足を踏み出した。
雨の上がった森は、折れた木々や抉れた地面が散乱し、昨日の激戦の爪痕を痛々しく残していた。朝霧が立ち込める中、ヴァンは背中の重みと全身の激痛に耐えながら、城塞都市へと続くぬかるんだ獣道を一歩一歩、確実に踏みしめて歩き始めた。
レオンたちがどうなったのか、彼らがどこへ逃げたのか、ヴァンには分からない。ただ、護るべきものを背負い、生きて森を抜ける。その戦士としての純粋な目的だけが、満身創痍のヴァンを前へと突き動かしていた。
背中で心地よさそうに眠る精霊召喚師は、自分を背負って泥濘を歩く男が誰なのか、いまだ知る由もなかった。




