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追放された戦士は『同化』で覚醒する〜不要とされた俺が伝説の剣豪を身に宿し、やがて多民族国家を創り上げるまで〜  作者: 八咫 日本


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第8話 泥濘の逃走と暗闇の庇護

迷いの深森の奥深くは、昼夜の概念すら意味を成さない絶対的な暗闇と静寂に支配されていた。しかし今のヴァンにとって、その静寂は背後から迫り来る圧倒的な死の足音によって完全に破り去られていた。

ズズン、メシャァッ。

数十メートル後ろで、樹齢数百年はあろうかという巨木が飴細工のようにへし折られ、泥水が爆発したような音を立てて弾け飛ぶ。変異種が放つ紫色の瘴気が森の冷たい雨に混じり、周囲の植物を瞬時に枯死させながら、獲物を求めて猛烈な速度で迫ってきていた。

ヴァンの肺は、呼吸をするたびに焼け焦げるような激痛を訴えていた。先ほど変異種の触手からリーゼを庇った際、背中の軽鎧はひしゃげ、肋骨の数本に確実にヒビが入っている。口の中に広がる生温かい鉄の味を吐き捨てながら、ヴァンはぬかるんだ斜面を獣のような足取りで駆け下りた。

右肩には、完全に意識を失ったリーゼが担がれている。彼女の身体は氷のように冷たくなっているかと思えば、次の瞬間には火のように熱くなるという異常な状態を繰り返していた。瘴気を吸い込んだことによる魔力回路の暴走が、彼女の肉体を内側から破壊し始めているのだ。

「……っ」

突如、背後の大気が異様に圧縮される気配を感じ、ヴァンは本能的に地面を蹴って真横に跳躍した。

直後、彼が今まで走っていた空間を、ドス黒い泥の槍が音速で突き抜けていった。もし反応がコンマ一秒でも遅れていれば、二人まとめて串刺しにされていただろう。物理的な破壊力に特化したその一撃は、魔法による防御結界を持たないヴァンにとって、掠っただけでも致命傷になり得る。

だが、ヴァンに焦りはない。魔法を使えない戦士として長年生き抜いてきた彼にとって、絶対的な死の恐怖と隣り合わせの状況は、むしろ感覚を極限まで研ぎ澄ませるための起爆剤だった。

足の裏から伝わる泥の粘度、雨粒が葉を打つ音の反響、そして背後から迫る瘴気の風圧。ヴァンはその全てを脳内で瞬時に計算し、変異種の巨体が入り込めないような密集した木々の隙間や、鋭い茨の群生地をあえて選んで走り続けた。直線的な速度では変異種に分があるが、この複雑な地形で小回りを利かせた逃走劇ならば、鍛え抜かれた戦士の肉体にこそ軍配が上がる。

どれくらい走り続けたか。感覚的には数十分、いや、数時間にも思えた逃走の果てに、ヴァンの鋭い視界が、雷に打たれて倒壊した巨大な古木の根元に、大人二人がようやく入り込めるほどの暗い洞穴を見つけ出した。

ヴァンは一切の躊躇なく、リーゼを抱えたままその泥まみれの洞穴へと滑り込んだ。

奥へと身を潜め、リーゼの身体をそっと冷たい岩肌に横たえると、ヴァンは即座に洞穴の入り口付近に散乱していた枯れ枝や腐葉土をかき集め、自分たちの姿を隠すように擬装を施した。

その直後だった。

ドスン、ドスンと、森の大地を揺るがす重い足音が洞穴のすぐ外まで迫ってきた。

ヴァンは呼吸を完全に止め、横たわるリーゼの口を自分の手で塞いだ。高熱にうなされる彼女が無意識に呻き声を上げるのを防ぐためだ。

洞穴のわずかな隙間から、変異種の巨体から滴り落ちる黒い泥が見えた。強烈な瘴気の臭いが流れ込んできて、ヴァンの目を刺す。変異種の眼球のない顔が洞穴の近くまで顔を寄せ、獲物の匂いを探るように空気を吸い込んでいるのがわかった。

ヴァンは右手でリーゼの口を塞ぎながら、左手で腰の短剣を逆手に握りしめていた。もし見つかれば、一瞬の隙を突いて変異種の顔面に刃を突き立て、再び自分が囮になって飛び出すしかない。その致死の覚悟を胸に秘めたまま、ヴァンは心臓の鼓動すらも意志の力で遅くし、ただひたすらに岩と同化してやり過ごすことを選んだ。

永遠とも思える数十秒の膠着状態。

やがて、変異種は獲物の気配を見失ったと判断したのか、苛立たしげな低い唸り声を上げると、レオンたちが逃げていったであろう方向とは別の、森のさらに奥深くへと重い足音を響かせて去っていった。

地響きが完全に消え去り、森に再び雨音だけが戻ってきたことを確認して、ヴァンは初めて小さく息を吐き出した。

全身の筋肉の緊張が解けると同時に、背中の傷と肺の痛みが一気に押し寄せてくる。しかし、ヴァンに休む暇は与えられていなかった。

暗闇の中、ヴァンの手がリーゼの額に触れる。尋常ではない熱さだった。瘴気に侵された彼女の呼吸は浅く、時折苦しげに喉の奥で引きつるような音を立てている。このまま体温の異常低下と魔力暴走が続けば、夜明けを待たずに彼女の命は尽きるだろう。

「……ひどい熱だ。だが、解毒の魔法薬はあいつらが持っている」

ヴァンは低く呟きながら、迅速に行動を開始した。

まずは、雨と泥水をたっぷりと吸い込み、氷のように冷え切ってしまったリーゼの豪奢な外套と上着をためらいなく剥ぎ取った。見栄えだけを重視した召喚師の衣装は、一度濡れてしまえばただ体温を奪うだけの死装束にしかならない。

次にヴァンは、自分自身の泥だらけの軽鎧と革の外套を脱ぎ捨てた。そして、比較的雨に濡れていなかった内着の麻布を裂き、リーゼの身体に巻きつけて保温層を作る。

火を起こすことはできない。煙と光は間違いなく変異種を呼び戻してしまう。

ヴァンは薄着のリーゼを抱き寄せると、岩肌を背にして座り込み、自分の体温で彼女を直接温めるという原始的な手段に出た。鍛え抜かれた戦士の肉体は、どれほど過酷な環境下でも高い体温を維持することができる。

リーゼの細く冷たい身体が、ヴァンの熱を求めて無意識にすり寄ってきた。彼女は苦しげな表情のまま、ヴァンの腕の中で微かに震えている。

かつて、あれほどまでに戦士を蔑み、泥にまみれることを嫌悪していた高貴な精霊召喚師。彼女が今命を繋ぎ止めているのは、彼女が見下していた泥まみれの戦士の体温と、魔法を一切使わない物理的な手当てのおかげだった。

だが、ヴァンはその皮肉を冷笑するようなことはしない。彼にとって、これは仲間を護るという自身の役割を遂行しているだけの、当たり前の行為だった。彼女が目を覚ました時、自分にどのような言葉を投げつけるかなど、今のヴァンには関係のないことだ。

冷たい雨の降る深い森の底。

誰にも知られることのない暗闇の洞穴の中で、ヴァンは背中の激痛に耐えながら、腕の中の小さな命の灯火を護るため、ただ一人、血にまみれた夜の歩哨を続けていた。

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