第7話 崩壊する虚栄と泥中の決死行
真紅の炎と雷光が入り混じった極太の光条が、薄暗い森の空間を真っ二つに切り裂いた。
それは勇者レオンが召喚した炎翼の神獅子が放った絶対的な一撃。しかし、変異種の口から反射されたその光条は、放たれた時よりもはるかに禍々しい紫色の瘴気を帯び、元の主である神獅子へと真っ直ぐに突き刺さった。
鼓膜を破るような轟音とともに、神々しい炎の翼が半ばから千切れ飛ぶ。神獅子は苦悶の咆哮を上げながら、その巨体を構成する光の粒子を撒き散らして森の奥へと吹き飛ばされた。数百本もの巨木をなぎ倒し、大地に深いクレバスを穿ちながら、最高位の召喚獣は呆気なく霧散していく。
「あ……ば、馬鹿な……僕の、神獅子が……」
レオンは膝から泥の上に崩れ落ちた。彼の顔から血の気が失せ、絶対的な自信に満ちていた瞳には、これまでの人生で一度も味わったことのない恐怖と絶望が浮かんでいる。召喚獣が破壊されたことによる魔力の逆流が彼の全身を襲い、レオンは痙攣しながら嘔吐した。
「レオン。しっかりしなさい。キース、結界の強度を最大まで上げて」
悲鳴を上げそうになる己を奮い立たせ、精霊召喚師のリーゼが一歩前へと進み出た。彼女の銀色の髪が、周囲に立ち込める瘴気の風に煽られて激しく揺れる。
「炎と雷が駄目なら、全てを凍てつかせるまでよ。深淵より出でて、万物を白銀に閉ざす氷海の女王。我が魔力を代償に、その絶対零度の吐息を解放しなさい」
リーゼが両手を高く掲げると、空から降り注ぐ冷たい雨粒が空中でピタリと静止した。周囲の気温が急激に低下し、地面の泥水が瞬く間に凍りついていく。そして、空中に展開された巨大な青白い魔法陣から、美しい氷の結晶で構成された十二枚の翼を持つ巨大な女性型の精霊が姿を現した。氷海の女王だ。
女王が優雅に腕を振るうと、森の水分という水分が鋭利な氷の槍へと変貌し、数千本もの氷刃となって変異種へと降り注いだ。さらに絶対零度の吹雪が荒れ狂い、変異種の黒い泥の巨体を完全に氷漬けにしていく。
華麗で、美しく、そして圧倒的な殲滅力。
「やったわ……完全に凍結させた……」
リーゼが安堵の息を吐こうとした、まさにその直後だった。
ピキッ、と嫌な音が鳴った。変異種を覆っていた分厚い氷の塊に亀裂が走り、中からドス黒い瘴気が漏れ出し始めたのだ。氷海の女王が放った絶対零度の冷気すらも、変異種はその内側から瘴気の熱量で溶かし、自らの養分として吸収しようとしていた。
「嘘、でしょ……。もっと、もっと魔力を……」
リーゼが焦燥に駆られ、さらに女王へ魔力を送り込もうとした瞬間、彼女の身体に異変が起きた。
変異種が放つ紫色の瘴気は、単なる毒ではなく、人間の魔力回路そのものを侵食する特殊な性質を持っていたのだ。大気中に充満した濃密な瘴気を無意識に吸い込んでいたリーゼの肺が焼け焦げるような痛みを放ち、体内の魔力が暴走を引き起こした。
「あ、ぁ……っ」
リーゼの口から大量の鮮血が吐き出される。同時に、魔力供給を絶たれた氷海の女王が甲高い悲鳴のような音を立てて砕け散った。
リーゼの身体が、糸の切れた操り人形のように前方へと崩れ落ちる。彼女が倒れ伏したのは、キースが展開している防衛結界の、わずかに外側の泥濘の中だった。
「キース。リーゼを助けろ。結界を前に広げるんだ」
泥の中でうずくまるレオンが叫ぶが、キースの顔はすでにパニックで引きつっていた。
「む、無理だ。あの瘴気に触れたら僕の結界ごと魔力回路を焼かれる。レオン、結界を縮小するぞ。このままじゃ僕たちまで死んでしまう」
キースは倒れたリーゼを助けるどころか、己とレオンの身を守るためだけに、防衛結界の範囲を極限まで小さく絞り込んだ。透明な壁がリーゼの目の前で冷酷に遮断され、彼女は完全に外界の脅威の中へと置き去りにされた。
変異種が、無防備に倒れ伏すリーゼへと巨大な泥の触手を振り上げた。意識を失いかけているリーゼの視界に、死の影が覆い被さる。
誰もが彼女の死を確信したその刹那。
ドズンッ、と地響きを立てて、百キロを超える巨大な背嚢が泥の中に投げ出された。
同時に、一つの影が爆発的な速度で結界の横をすり抜け、瘴気の渦巻く空間へと飛び出していった。戦士、ヴァンだ。
彼の思考に迷いは一切なかった。召喚師たちが己の保身に走り、仲間を見捨てたという事実に対する怒りすらない。ただ、護るべき者がそこに倒れている。その物理的な状況を前に、彼の鍛え抜かれた肉体は本能のままに最善の軌道を描いて駆動していた。
致死の猛毒を含む瘴気がヴァンの肺を灼き、目が潰れそうなほどの痛みが襲うが、彼は呼吸を完全に止め、泥を蹴り立てて加速した。
頭上から、大木ほどの太さがある変異種の触手が、リーゼを押し潰そうと音速で振り下ろされる。
ヴァンは泥の海を滑り込むようにしてリーゼの元へ到達すると、彼女の細い身体を両腕でしっかりと抱え込み、そのままの勢いで横方向へと全力で跳躍した。
直後、リーゼが倒れていた場所を巨大な触手が粉砕した。凄まじい質量による物理的な衝撃波と、飛び散る泥の飛礫が、空中に逃れたヴァンの背中を容赦なく打ち据える。
「ぐっ……」
ヴァンの口から短い呻き声が漏れた。頑丈な革の外套が引き裂かれ、軽鎧の背中部分がひしゃげて肉に食い込む。衝撃で肺の空気が強制的に吐き出され、意識が飛びかけそうになるほどの激痛が全身を駆け巡った。
しかし、ヴァンは腕の中のリーゼを決して離さなかった。彼女の身体に衝撃がいかないよう、自らの肉体を肉盾として空中で丸まり、泥濘の地面を数メートルも転がって威力を殺す。
すぐそばでは、キースの結界の中に引きこもったレオンたちが、恐怖に震えながらこちらを見ている。結界の中に戻る時間はない。もし戻ろうとすれば、変異種の次の攻撃が結界ごと彼らをすり潰すだろう。
ヴァンが採るべき戦術は一つしかなかった。
彼は痛む身体に鞭を打って立ち上がると、気を失ったリーゼを米俵のように肩に担ぎ上げた。そして、変異種の眼球のない顔に向け、地面に落ちていた手頃な岩を全力で投げつけた。
岩は変異種の顔面に命中し、パチンと弾け飛ぶ。物理的なダメージは皆無だが、獲物の注意をこちらに向けさせるには十分だった。
変異種が苛立たしげな雄叫びを上げ、その巨体をヴァンへと向ける。
ヴァンはレオンたちに一瞥もくれることなく、背後の暗く深い森の奥、迷宮のように入り組んだ獣道へと向かって全速力で走り出した。自らが囮となって最悪の化け物を引きつけ、レオンたちを逃がすための決死の逃行。
肩に担がれたリーゼは完全に意識を失っており、自分を抱えて命懸けで泥の中を走る男の体温も、彼の背中から流れる生々しい血の匂いも、何一つ気づいてはいなかった。
背後から迫り来る木々の薙ぎ倒される轟音と、這い寄るような瘴気の気配を感じながら、ヴァンはただひたすらに、一切の光が届かない死の森の深淵へと足を踏み入れていった。




