第6話 迷いの深森と慢心の光
重く垂れ込めた鉛色の雲から、氷のように冷たい雨が絶え間なく降り注いでいた。
城塞都市から東へ丸一日歩き続けた先に広がる「迷いの深森」。その名が示す通り、この森は常軌を逸した太さを持つ巨大な樹木が複雑に絡み合い、昼間であっても陽の光を完全に遮断する薄暗い迷宮を形成していた。雨粒は巨大な葉を叩き、無数の不規則なノイズとなって鼓膜を打ち続ける。森全体が、侵入者を拒絶する巨大な生き物のように不気味な呼吸を繰り返していた。
ヴァンの背中には、いつもの限界を超えた重量の野営道具に加え、深森の有毒な蟲を避けるための巨大な鉄製の香炉が括り付けられていた。香炉からは、鼻が曲がるほどの強烈な刺激臭を放つ緑色の煙が絶えず立ち上っている。雨を吸って泥濘と化した地面に足を取られるたび、百キロを優に超える背嚢がヴァンの肩に食い込み、革の帯が悲鳴のような軋み音を上げた。さらに、魔力を帯びた重い雨がヴァンの軽鎧の隙間から侵入し、体温を容赦なく奪っていく。
しかし、ヴァンの足取りに淀みはない。彼はただ無言で、前を歩く三人の歩幅に合わせて正確に泥を踏みしめていた。
「最悪の天気ね。おまけにこの煙、髪に匂いが染み付いたらどうしてくれるのよ」
先頭集団を歩くリーゼが、苛立たしげに自身の銀髪を払った。彼女たちの周囲には、キースが展開した水弾きと泥除けの複合結界がドーム状に張られている。雨粒は結界の表面で弾け飛び、足元の泥すらも彼らのブーツに触れる前に透明な魔力の壁に阻まれていた。香炉の不快な煙も、結界の力で彼らの鼻腔には一切届かない。過酷な自然環境の全てをヴァン一人に押し付け、彼らは王宮の温室を歩くかのような快適さで森を進んでいた。
「我慢しろリーゼ。この森の奥に潜むという変異種を討伐すれば、国中が僕たちの実力をさらに称賛することになる。消息を絶ったという三流の冒険者パーティーが残した装備品でもあれば、ついでに回収して小遣い稼ぎにしてやろう」
レオンが薄く笑いながら、結界の内側で余裕の表情を浮かべる。彼らの心には、未知の魔物に対する恐怖や警戒心など微塵も存在していなかった。自分たちの使役する高位の召喚獣が敗北するなど、天地がひっくり返ってもあり得ないという強固な慢心が、彼らの目を完全に曇らせていた。
だが、最後尾を歩くヴァンだけは違った。
彼の研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚は、数時間前から森の異変を正確に捉えていた。雨音に混じるはずの、森の小動物の鳴き声や虫の羽音が一切しない。さらに、足元の腐葉土の匂いに混じって、甘ったるく腐敗したような、得体の知れない瘴気の匂いが濃くなり始めている。
何かが、この森の生態系そのものを歪めている。
ヴァンが腰の両手剣の柄に静かに手を当てたその時だった。
前方の巨大な枯れ木の陰から、不気味な水音とともに「それ」が姿を現した。
体長は五メートル以上。四足歩行の獣のような骨格を持ちながら、その全身は黒い泥と無数の枯れ枝、そして白骨化した動物の死骸が不規則に融合したような悍ましい姿をしていた。頭部にあたる部分には眼球がなく、代わりに巨大な空洞がぽっかりと開き、そこから紫色の瘴気を吐き出している。
「出たな、変異種とやらめ。腐りかけの生ゴミの分際で、僕の前に立ち塞がるとはいい度胸だ」
レオンが嘲笑を浮かべ、結界の中から一歩前に出た。未知の異形を前にしても、彼の顔にあるのは勝利を確信した傲慢な笑みだけだった。
「リーゼ、キース、手出しは無用だ。僕の新しい召喚獣の力、とくと見せてやる」
レオンが両腕を大きく広げ、高らかに詠唱を始めた。
「天の門を開き、裁きの雷火をもたらす聖なる王よ。我が呼び声に応え、その輝かしき姿を現せ」
暗く沈んでいた森の空気が、突如として高熱を帯びた。レオンの頭上の空間がガラスのようにひび割れ、そこからまばゆい黄金の光が降り注ぐ。空中に直径十メートルを超える複雑な幾何学模様の魔法陣が展開されると、森を覆う雨雲が瞬時に吹き飛び、落雷のような轟音とともに巨大な影が舞い降りた。
召喚されたのは、炎翼の神獅子。
燃え盛る真紅の炎で構成された巨大な翼を持ち、黄金のたてがみからは絶えず火の粉と雷光を撒き散らしている高位の神獣だ。その神々しい姿が現れた瞬間、周囲の雨水は一瞬にして蒸発し、分厚い白い蒸気となって森を包み込んだ。神獅子が大地を踏みしめると、地響きとともに森全体が恐怖に震えるかのように揺れる。
「さあ、消し飛べ。神雷の咆哮」
レオンの優雅な指先が変異種を捉える。
炎翼の神獅子が大きく顎を開くと、その喉の奥で極大の熱量と雷鳴が圧縮され、次の瞬間、太陽そのものを撃ち出したかのような破壊の奔流が放たれた。
極太の雷炎のレーザーが、一直線に変異種の巨体へと突き刺さる。轟音と閃光が森の視界を真っ白に染め上げ、凄まじい衝撃波が木々をなぎ倒した。結界の中にいるリーゼとキースでさえ、その余波に顔を覆うほどの圧倒的な破壊力。ヴァンは巨大な背嚢を地面に突き立て、それを盾にして強烈な熱風と爆風を耐え凌いだ。
数秒後、光が収まり、もうもうと立ち込める土煙の中で、レオンは満足げに鼻で笑った。
「他愛もない。少し力を出しすぎたか。これでは魔石すら残っていないかもしれないな」
だが、煙が風に流されて少しずつ晴れていく中、目を凝らして前方を見ていたヴァンの表情が、わずかに険しさを増した。
煙の奥。地面が大きく抉れ、周囲の木々が炭化して原型をとどめていない惨状の中心で。
ズズッ、ズズズッ……。
悍ましい水音とともに、紫色の瘴気が再び立ち上った。
炎翼の神獅子の絶対的な一撃を直撃で浴びたはずの変異種は、その巨体の半分を吹き飛ばされながらも、全く意に介する様子もなく立ち上がっていたのだ。いや、それだけではない。吹き飛ばされた黒い泥と骨の断面から、無数の黒い触手のようなものが蠢き出し、周囲の炭化した木々や土を取り込みながら、瞬く間に失われた肉体を再生していく。
さらに、眼球のない巨大な空洞が、真っ直ぐに上空の神獅子へと向けられた。
変異種の口から、先ほどの神獅子の攻撃と全く同じ、真紅の炎と雷光が入り混じった光の玉が吐き出された。それは先ほどの攻撃を吸収し、自らの瘴気と掛け合わせて威力を増幅させた、理不尽極まりない反射攻撃だった。
「なっ……!?」
レオンの余裕の笑みが、初めて引きつった。
最強の召喚獣の攻撃を吸収し、再生し、反射する。それは、ただ力で蹂躙することしか知らない彼らが、これまで一度も経験したことのない「召喚術そのものに対する強烈なアンチテーゼ」の出現を意味していた。




