第10話 泥濘の生還と歪められた真実
ズチャ、ズチャと、重く湿った足音が迷いの深森の出口へと向かって刻まれ続けていた。
太陽はすでに中天に達しようとしている。森の木々の隙間から差し込む光は、雨上がりの湿気を帯びた空気を乱反射し、白く霞んだ幻想的な風景を作り出していた。しかし、その光の中を歩くヴァンの姿は、およそ幻想とはかけ離れた凄惨なものだった。
全身を覆っていた実用的な軽鎧は、変異種の触手による物理的な衝撃と強酸の瘴気によってひしゃげ、半ば原型を留めていない。折れた肋骨が呼吸のたびに肺を圧迫し、ヴァンの口角からは絶えず赤黒い血が流れ落ちていた。泥と血、そして瘴気の残滓が混じり合った異臭が彼の全身から立ち上っている。
それでも、ヴァンの足取りが止まることはなかった。
彼の背中には、麻布でしっかりと固定された精霊召喚師リーゼが背負われている。ヴァンの決死の看病によって魔力暴走の危機を脱した彼女は、規則正しい寝息を立てながら、まるで揺りかごの中にいる赤子のように無防備に眠り続けていた。彼女の体重自体は軽い。だが、極限まで消耗しきったヴァンの肉体にとって、その重みは鉛のようにのしかかり、一歩踏み出すたびに膝の関節が悲鳴を上げている。
視界が明滅し、意識が遠のきそうになる。ヴァンはそのたびに自らの奥歯を強く噛み締め、痛覚によって強制的に脳を覚醒させた。
やがて、鬱蒼とした木々の列が途切れ、視界が急激に開けた。
迷いの深森を抜け、城塞都市へと続く街道に出たのだ。遮るもののない直射日光が、ヴァンの網膜を容赦なく灼く。乾いた風が吹き抜け、背中のリーゼの銀髪が微かに揺れた。
街道を数時間歩き続け、ついに城塞都市の高い石壁と堅牢な正門が見えてきた。
門の前に立っていた衛兵たちは、街道の奥からふらふらと歩いてくる血塗れの男の姿に気づき、慌てて槍を構えた。
「止まれ。何者だ。ここは……って、お前、勇者パーティーの戦士じゃないか」
衛兵の一人が、泥と血にまみれたヴァンの顔を覗き込み、驚愕の声を上げた。そして、彼の背中に背負われている豪奢な衣服を剥ぎ取られた少女の姿を見て、さらに顔色を変える。
「り、リーゼ様。おい、精霊召喚師様が倒れているぞ。すぐに治療院へ運べ」
衛兵たちが駆け寄り、ヴァンからリーゼを下ろそうと手を伸ばした。ヴァンは抵抗することなく、背中の麻布の結び目を解き、彼女を静かに衛兵の腕の中へと預けた。
背中の重みが消えた瞬間、強烈な目眩がヴァンを襲った。しかし、彼は自らの両足でしっかりと大地を踏みしめ、決して膝を突くことはなかった。
「おい、薄汚い戦士。お前、リーゼ様に何をした」
怒号とともに、城門の内側から豪奢なローブを翻して歩いてくる二つの影があった。勇者レオンと、戦術召喚師のキースだ。
彼らの姿には、一切の泥汚れも傷もなかった。変異種の反射攻撃によって召喚獣を破壊された後、彼らは即座に高価な『転移の魔石』を使用し、リーゼやヴァンを見捨てて一足先にこの安全な街へと逃げ帰っていたのだ。
レオンは足早に近づくと、衛兵の腕の中で眠るリーゼを奪い取るように抱き寄せた。
「レオン様、この戦士がリーゼ様を背負って街道から……」
「黙れ。状況はわかっている」
レオンは衛兵の言葉を遮ると、冷酷な侮蔑の眼差しをヴァンへと向けた。
昨日の戦闘で、レオンは自分の最強の召喚獣が敗北し、無様に逃げ帰ったという事実を隠蔽する必要があった。ギルドや街の有力者たちには「変異種の卑劣な罠にかかり、戦士が荷物を放り出して真っ先に逃亡したせいで陣形が崩れた」と嘘の報告を済ませていたのだ。
そこに、死んだと思っていたヴァンが、あろうことかリーゼを助け出して生還してしまった。このままでは自分たちの嘘が露見し、勇者としての名声に傷がつく。
レオンは瞬時に頭を回し、周囲に集まり始めた街の人々や衛兵に聞こえるよう、わざとらしく大きな声を張り上げた。
「この卑怯者め。僕たちが命懸けで変異種の足止めをしている最中、あろうことか混乱に乗じてリーゼを誘拐し、戦線から逃亡するとは。お前のその泥にまみれた無様な姿が、地面を這いつくばって逃げ回った何よりの証拠だ」
キースもそれに合わせて、冷笑を浮かべながら口を開く。
「魔力を持たない戦士の足では、僕たちより街に到着するのが遅れるのも当然だ。リーゼ様を人質にして、自分の身の安全を図ろうとしたのだろうが、浅知恵だったな」
周囲の群衆から、ヴァンに対する怒りと軽蔑のざわめきが沸き起こった。「やはり戦士はクズだ」「勇者様たちを見捨てて逃げるなんて」という罵声が、容赦なくヴァンに浴びせられる。
その騒ぎの中、レオンの腕の中でリーゼが微かに瞼を開いた。
「……あ、れおん……?」
高熱の名残でまだ焦点の定まらない瞳が、自身を抱きかかえるレオンの整った顔を映し出す。
「リーゼ、もう大丈夫だ。僕が君を助け出した。あの卑怯な戦士は、君を見捨てて一番に逃げ出したんだ。僕たちがどれほど心配したか」
レオンは甘く優しい声で囁きながら、リーゼを強く抱きしめた。
リーゼの混濁した意識の中で、記憶が断片的に繋ぎ合わされていく。変異種の放つ瘴気、倒れ込む自分、そして、自分を置いて結界を閉じた……いや、違う。レオンは今、私を助け出したと言っている。そうだ、高貴な彼らが私を見捨てるはずがない。
リーゼはゆっくりと視線を巡らせ、数歩先に立つ男の姿を捉えた。
無骨な両手剣を背負い、泥と血と悪臭にまみれて立ち尽くすヴァン。その姿は、高貴な召喚師の彼女から見れば、ただの薄汚れた敗残兵にしか見えなかった。昨夜、暗闇の中で自分を温め続けてくれたあの不器用で力強い腕の感触は、熱に浮かされた夢の中の幻として彼女の記憶の底へと沈んでいく。
ヴァンは、レオンの紡ぐ滑稽な嘘にも、群衆の罵声にも、一切の反論を口にしなかった。
彼にとって重要なのは、リーゼが生き延び、安全な街に帰り着いたという物理的な結果だけだ。自分の名誉がどうなろうと、真実がどれほど歪められようと、そんなものは戦士としての役割とは何の関係もない。
ヴァンはただ一度だけ、レオンの腕の中で安全を取り戻したリーゼの姿を静かに見届けると、血を吐くような痛みを隠し、無言のまま踵を返した。
「どこへ行く、逃亡者。お前の処遇については、後でたっぷりとギルドで話し合わせてもらうからな」
背後から投げつけられるレオンの勝ち誇ったような声を背に受けながら、ヴァンは城塞都市の裏路地へと続く影の中へ、ただ一人、重い足取りで歩み去っていった。




