第78話 轟く名声と次なる目的地
澄み切った朝の空気が、静寂に包まれた湖畔を吹き抜けていく。
ヒュドラが発していた紫色の瘴気はすでに完全に消え去り、かつて忘却の泥沼と呼ばれていたその場所は、本来の手付かずの自然の姿を取り戻しつつあった。
巨大な鋼殻の移動要塞のそばでは、朝早くからバクスが野外の調理台に立ち、軽快な包丁の音を響かせていた。
鍋からは、新鮮な野菜とヒュドラの討伐報酬としてルミナが手配しておいた高級な香草、そして森で仕留めた野鳥の出汁が溶け合った、食欲をそそる香りが漂っている。
「おう、大将。早いな」
要塞から降りてきたヴァンを見つけると、バクスは尻尾を揺らしながら笑顔を向けた。
「体の調子はどうだ? 昨日の夜に飲ませた超回復のスープのおかげで、筋繊維の断裂は完全に塞がっているはずだが」
「ああ。痛みはないが、体が羽のように軽い。極限まで酷使したはずの筋肉が、戦う前よりもさらに強靭に編み直されている感覚がある」
ヴァンが両手を握り、軽く足踏みをして確かめる。
「へへっ、そいつは良かった。俺の飯はただ傷を治すだけじゃねえ。食べた者の肉体を根幹から作り変え、次の戦いに備えるための最高の装甲にするんだ。さあ、朝飯のスープもすぐできるぜ」
バクスの言葉にヴァンが頷いたその時、要塞の車体下部から、地響きのような重厚な駆動音が鳴り響いた。
ガシュゥゥゥンッ、と排気口から青白い蒸気が吹き出し、巨大な装甲の節々が生命を得たかのように脈動を始める。
「がはははっ! 大成功だ!」
油に塗れた顔で操縦席から顔を出したのは、ドワーフのバルガンだった。その残された右腕は、誇らしげに巨大なスパナを握っている。
「おい大将、ルミナ! 聞こえるかこの最高のエンジン音が! 昨日の夜から徹夜で、ヒュドラの魔石を要塞の主動力である星脈の核に直結させてやったんだ。これまでの三倍以上の出力が出せるぜ。結界の強度も、悪路の走破性も、今までとは次元が違う代物になった!」
「バルガンさん、徹夜で作業していたんですか? 無理は禁物ですよ」
呆れたような声とともに、ルミナが居住区画から降りてきた。しかし、その手には数枚の羊皮紙が握られており、彼女の表情はどこか興奮に上気していた。
「ルミナ、何かあったのか?」
セリアも青い外套を羽織りながら外へ出てきて、商人の少女に問いかけた。
「交易都市ファルガーに残しておいた、私の情報網からの定期連絡です。魔法の伝書鳥が今朝早くに届けてくれました」
ルミナは羊皮紙を広げ、皆の顔を見渡した。
「ヴァンさん、私たちの名前が、交易都市だけでなく周辺の国境地帯にまで轟き始めています。宵闇の梟と金貨の天秤商会を壊滅させただけでなく、あの災害級のヒュドラをたった五人で討伐したという事実が、信じられないほどの速さで広まっているんです」
ルミナの報告によれば、街は今、かつてない熱狂に包まれているという。
特に、スラムで肩を寄せ合って生きる亜人たちや、純血至上主義の人間たちから不当な扱いを受けていた中小の商人、職人たちの間で、ヴァンたちのパーティーは半ば伝説のように語られ始めていた。
権力に阿ることなく、不条理な暴力と災害を圧倒的な力でねじ伏せた異端者たち。
彼らの存在は、社会から不要とされ、息を潜めて生きてきた弱者たちにとって、暗闇を照らす明確な希望の光となっていたのだ。
「私たちが昨日の夜に語り合った夢……。どこの国にも属さず、居場所のない者たちが笑って暮らせる場所を創るという目標。それは決して、私たちだけの夢ではなくなっているのかもしれません」
ルミナが、羊皮紙を胸に抱きしめながら熱を帯びた声で言った。
「街で虐げられている多くの人たちが、ヴァンさんたちの姿に、自分たちの本当の居場所を夢見始めているんです」
その言葉を聞いて、焚き火の跡を囲んでいた仲間たちの間に、静かな、しかし熱い沈黙が降りた。
自分たちが生き延びるため、理不尽に抗うために振るってきた力が、いつの間にか見知らぬ誰かの希望になっている。
戦士は不要だと切り捨てられたヴァン。
異端だと教会の地下に隠れ住んでいたセリア。
獣人というだけで夢を絶たれたバクス。
同胞に裏切られ腕を失ったバルガン。
生まれを呪われ搾取され続けたルミナ。
社会の底辺から這い上がってきた彼らの軌跡が、今、確かなうねりとなって世界に影響を与え始めていた。
「大将。……俺たちの夢は、ただの寝言じゃ終わらねえな」
バルガンが操縦席から降りてきて、ニヤリと笑う。
「ああ。ならば、やるべきことは一つだ」
ヴァンは漆黒の斬馬刀の柄を軽く叩き、ルミナを見た。
「俺たちの国を創るには、今のままでは知識も力も足りない。次なる目的地を決めるぞ」
「はい!」
ルミナはすぐに携帯用の大きな地図を広げ、木箱の上に広げた。
「私たちが今いる忘却の泥沼から、さらに北東へ進むと、バクスさんの同胞が多く住む『獣人たちの霊峰』と呼ばれる巨大な山岳地帯が広がっています。そして、西へと進路を取れば、手付かずの魔法素材や古代の知識が眠るとされる『エルフの深緑領』です」
「獣人の霊峰か……」
バクスが腕を組み、真剣な表情で地図を見下ろした。
「あそこは俺の故郷に近いが、閉鎖的で排他的な連中が多い。だが、人間社会には出回らない未知の凶悪な魔物や、強力な効果を持つ特殊な食材の宝庫でもある。大将の体をさらに強化するための飯を作るには、うってつけの場所だぜ」
「エルフの深緑領も捨てがたいですね」
ルミナが指を西へ滑らせる。
「エルフたちは極度の純血主義で国境の警備は厳重ですが、セリアさんの同化召喚をさらに安定させるための古代魔法の文献や、バルガンさんの要塞を強化するための希少鉱石が眠っているはずです」
ヴァンは地図を見つめ、そして仲間たちの顔を見た。
「どちらへ行くにせよ、人間たちの国の理が通用しない未知の領域だ。危険は今まで以上に跳ね上がる」
「何を今更。世界のすべてを敵に回す覚悟は、教会の地下であなたと契約した時にできているわ」
セリアが隣に立ち、ヴァンの顔を覗き込んで微笑む。
「それに、私たちにはこれ以上ない最高の仲間が揃っているもの」
その言葉に、バクスが胸を張り、バルガンが豪快に笑い、ルミナが力強く頷いた。
「まずは北東、獣人の霊峰を目指す」
ヴァンが地図の一点を指差して決断を下した。
「バクスの料理をさらに高みへ引き上げ、俺たちの生存能力を底上げする。それに、あの山脈を越えることが、強化されたこの要塞の最初の試金石になるはずだ」
「承知した! 獣人の霊峰だな。しっかり掴まってろよ、大将。俺の最高傑作が、どんな険しい山道でも食い破って進んでやる!」
バルガンが操縦席へと駆け上がり、エンジンをさらに大きく吹かした。
朝食の極上スープを素早く平らげ、一行はそれぞれの持ち場へと乗り込んでいく。
ヒュドラの魔石の恩恵を受け、紫色の淡い光を帯びた結界を張り巡らせた鋼殻の移動要塞が、重々しい金属音を響かせながらゆっくりと前進を始めた。
ただ生き延びるために彷徨っていた異端者たちのパーティーは、多頭蛇の討伐と確かな名声を背に、「自分たちだけの国を創る」という明確な目標を抱き、未知なる獣人たちの領土へとその力強い轍を刻んでいく。
世界にその名を轟かせた彼らの、真なる成り上がりの旅が、今ここから始まろうとしていた。




