第75話 厄災の痕跡と異端の共同体
九つの首を同時に失った多頭蛇の巨体が、毒沼の奥底へと完全に沈み込んでいく。
最後に沼の表面が大きく泡立ち、やがて紫色の波紋が静まると、周囲を覆っていた禍々しい瘴気も嘘のように霧散していった。
ヴァンは青い血清が塗布された斬馬刀を静かに鞘に収め、空を仰いだ。
「セリア、同化を解除する」
その呟きと同時に、ヴァンの背後から赤銅色に輝く竜殺しの英雄の幻影が抜け落ち、虚空へと溶けて消えていく。
極限まで高められていた魔力と、劇薬によって三倍に膨れ上がっていた基礎筋力が急速に元の状態へと戻っていく。痛覚が遮断されているためヴァン自身に苦悶の表情はないが、その肉体への負荷は凄まじく、彼の巨体は限界を告げるようにガクリと膝を折った。
「ヴァン!」
要塞の屋根から飛び降りたセリアが、バルガンの築いた鋼杭の足場を軽やかに渡り、ヴァンの元へと駆け寄る。彼女はすぐさま彼の体を支えるように自身の肩を貸した。
「無茶苦茶よ……。劇薬で筋肉の繊維をズタズタにしながら、竜殺しの魔力をあれほど圧縮して放つなんて。痛みが無いからって、自分の体を単なる剣の柄のように扱うのはやめなさい」
セリアの声には微かな怒りと、それ以上の深い安堵が入り混じっていた。彼女にはヴァンの体を癒す術はない。だからこそ、その無茶な戦い方に誰よりも心を痛めているのだ。
「すまない。だが、完璧な舞台だった」
ヴァンはセリアの肩を借りてゆっくりと立ち上がり、後方で歓声を上げている要塞の仲間たちを見た。
「おうい、大将! そんまま動くなよ!」
要塞から身を乗り出したバクスが、大きな水筒を片手に鋼杭の上を器用に走って駆けつけてきた。
「ほら、こいつを一気に飲み干せ。霊水に世界樹の若葉と、再生力の高いトロールの骨髄を煮込んで溶かした『超回復の霊薬スープ』だ。引きちぎれたお前の筋繊維を、強引に繋ぎ合わせてくれる」
ヴァンが水筒を受け取り、濃厚なスープを喉に流し込む。
温かく、生命力に満ちた液体が胃の腑に落ちた瞬間、ヴァンの体から細かな湯気が立ち上った。劇薬の反動で断裂していた筋肉が、バクスの極上のスープの栄養素と霊水の力によって、凄まじい速度で修復されていく。
「美味い。……体が、軽くなった」
ヴァンが短く感想を漏らすと、バクスは誇らしげに鼻をこすった。
「へへっ。どんな無茶な戦い方をしようが、俺の飯がお前の命と体を完璧に繋ぎ止めてやる。俺がこのパーティーの台所を握っている限り、お前は絶対に死なせねえよ」
「バクスさんの言う通りです! ヴァンさん、本当にお疲れ様でした!」
ルミナが要塞の入り口から手を振っている。しかし、彼女の商人の鋭い目は、すでに毒沼の表面に向けられていた。
「バルガンさん! ヒュドラの体は溶けましたが、魔力核は沼の中央に残っているはずです。災害級の魔石ですよ! 絶対に回収してください!」
「おうよ! 任せとけ!」
バルガンが要塞の操作盤を叩くと、車体の下部から特殊な回収用クレーンが伸び、毒沼の底から巨大な紫色の結晶体を引き揚げた。それはヒュドラの莫大な生命力と魔力が凝縮された、金貨数万枚にも匹敵する極上の魔石だった。
ヴァンとセリアがバクスと共に要塞に帰還すると、車内はすでに勝利の熱気に包まれていた。
バクスが腕によりをかけた特大の祝勝会用ローストビーフがテーブルの中央に鎮座し、ルミナが冷やしておいた果実水を全員のカップに注いでいく。
ヴァンは受け取ったカップを手に、仲間たちの顔を一人一人見渡した。
かつて勇者パーティーで無能と蔑まれ、常に孤立していた彼には、今、明確な実感があった。このパーティーは、戦士が前衛で剣を振り、後衛が魔法で支援するという単なる冒険者の集まりではない。
住環境と絶対の安全を構築するバルガン。
財と物資を完璧に管理し、最高の道具を揃えるルミナ。
命の根源たる食を司り、肉体の限界を引き上げ、修復するバクス。
そして、異端の魂を降ろし、戦術の要となるセリア。
彼らは一つの小さな、しかし完璧に機能する「共同体」だった。
足りないものを補い合い、理不尽な世界に抗うための、移動する小さな国家そのものと言っても過言ではない。
「さあさあ、難しい顔をしてないで食おうぜ! 俺の飯は冷めると味が落ちるからな!」
バクスの掛け声とともに、五人のカップが高らかに打ち鳴らされた。
極上の肉を頬張り、笑い合い、次の改造計画や物資の調達ルートについて賑やかに語り合う。
痛覚を持たぬ虚無の戦士の心に、今まで感じたことのない、静かで温かな充足感が満ちていく。
「これで、魔境の入り口の脅威は完全に排除したわね」
食後、セリアが地図を広げて微笑む。
「ああ。ルミナが回収したヒュドラの魔石を使えば、要塞の動力はさらに化けるぞ。未知の領域だろうが、なんだろうが踏破してやる」
バルガンが誇らしげに胸を叩く。
「次の目的地は、あの山脈の向こう側ですね。新しい素材と出会えるのが楽しみです!」
ルミナもすっかり商人としての頼もしさを身につけていた。
ヴァンは窓の外を見た。
ヒュドラの毒沼を越えた先には、誰も踏み入れたことのない広大な未開の大地が、朝日を浴びて黄金色に輝いている。
彼らはもう、誰の理不尽にも縛られない。
集いし異端者たちの乗る鋼殻の移動要塞は、重厚な駆動音を響かせながら、彼らだけの真の居場所を創り出すための大地へと、力強く轍を刻んでいくのだった。




