第73話 竜殺しの英雄と不死の呪い
砲弾のような速度で跳躍したヴァンの巨体が、バルガンが毒沼に打ち込んだ一本目の鋼杭へと正確に着地した。
ヒュドラは自らの領域に侵入してきたちっぽけな存在を排除すべく、九つの首のうち三本を一斉にヴァンへと差し向けた。
大木のような太さを持つ首が鞭のようにしなり、凶悪な顎が四方からヴァンを噛み砕こうと迫る。さらに、他の首からは周囲の空気を黄色く染め上げるほどの高濃度の毒ガスが吐き出された。
死の壁となって迫る毒の息。
しかし、ヴァンの顔には微塵の焦りもない。
毒ガスがヴァンの体に触れる直前、彼が纏っていた青い光、ルミナが用意した「星海竜の血清」が激しく反応し、致死の毒を瞬時に無害な水蒸気へと変換して霧散させた。
「商人の保証通りだ。毒は通らない」
視界が開けた瞬間、ヴァンは着地したばかりの鋼杭を力強く蹴り上げた。
バクスの特製ミートボールによって基礎筋力が三倍に跳ね上がっているヴァンの脚力は、凄まじい爆発力を生み出していた。彼が蹴った鋼杭はバルガンの完璧な設計により、その規格外の衝撃を受けても毒沼に沈み込むことなく、しっかりと反発力を返してくる。
音を置き去りにするような神速の動きで、ヴァンは迫り来る三つの巨大な顎の死角へと潜り込んだ。
いかに災害級の魔物とはいえ、今のヴァンの動きは完全にヒュドラの動体視力を上回っていた。
その様子を移動要塞の屋根の上から見つめていたセリアが、深い青の外套を夜風にはためかせながら、高く澄んだ声で詠唱を紡ぎ始める。
「西方の険しき霊山にて、悪しき邪竜の心臓を穿ちし伝説の英雄。竜の血を浴びて不死を殺す、鋼の竜殺しよ。その不屈の闘志と必殺の記憶を、今この器に宿したまえ」
虚空に、赤銅色に輝く巨大な魔法陣が展開された。
そこから現れたのは、全身を分厚い竜の鱗で覆い、身の丈を越える巨大な大剣を構えた屈強な英雄の幻影だった。幻影は雄叫びを上げながら、空を駆けるヴァンの巨体へと一直線に同化する。
「同化召喚・竜殺しの英雄」
直後、ヴァンの肉体から圧倒的な殺気と、熱を帯びた赤銅色の闘気が爆発的に立ち昇った。
西洋の伝承に語られる竜殺しの力。それは、純粋な膂力の向上だけでなく、竜種や強大な生命力を持つ魔物に対する「概念的な特効」を武器に付与する特性を持っていた。
ヴァンの右手に握られた漆黒の斬馬刀が、赤銅色の闘気を吸い上げて脈打つように発光する。
「落ちろ」
短い呼気とともに、空中で身を捻ったヴァンは、斬馬刀を横薙ぎに一閃した。
劇薬によって極限まで高められた筋力と、竜殺しの記憶が導き出す完璧な剣筋。空間そのものを両断するような赤銅色の軌跡が、ヒュドラの三本の首をまとめて薙ぎ払った。
ズバァァァァァンッ。
硬い鱗を全く苦にすることなく、三つの巨大な首が鮮血を噴き出しながら毒沼へと落下していく。
致命的な一撃。並の魔物であれば、これで即死しているはずだった。
ヴァンは軽やかに二本目の鋼杭へと着地し、斬馬刀を油断なく構え直した。
「やった! さすがヴァンさん、あんな巨大な首を一撃で……!」
要塞の窓から身を乗り出したルミナが歓喜の声を上げる。
しかし、操縦席のバルガンと厨房のバクスは、その光景を見ても全く安堵の表情を浮かべてはいなかった。
「気をつけろ大将! そいつの命は、まだ全く削れてねえぞ!」
バルガンの怒声が響く。
その言葉を証明するかのように、ヒュドラの切断された三つの首の断面が、異様なほどの高熱を発してドロドロと泡立ち始めた。
肉が蠢き、骨が凄まじい速度で形成され、わずか数秒の間に、失われたはずの三つの首が完全に元の状態へと再生してしまったのだ。
「ギシャァァァァァッ!」
再生した首が、先ほどよりもさらに激しい怒りを込めて咆哮を上げる。
「これが多頭蛇の不死性……。物理的に首を斬り落としても、魔力核を破壊しない限り無限に再生を繰り返すという厄災の所以ね」
セリアが冷静に分析するが、その額には微かに汗が滲んでいた。
九つの首すべてがヴァンを明確な敵として認識し、四方八方から噛みつき、毒液を吐き出し、巨大な尾を振り回して鋼杭の足場ごと粉砕しようと暴れ狂う。
ヴァンは三倍の身体能力と竜殺しの剣技を駆使し、飛び石のように鋼杭の上を駆け抜けながら、迫り来る首を次々と斬り落としていった。
四本、五本、六本。
赤銅色の刃が閃くたびに巨大な首が宙を舞うが、それらは沼に落ちる前に断面が泡立ち、瞬時に新しい首として再生して彼に襲いかかってくる。
斬っても斬っても終わらない、無限の暴力の連鎖。
通常の戦士であれば、この絶望的な再生力を見せつけられた時点で心が折れ、やがて体力が尽き果てて毒沼に引きずり込まれているだろう。バクスの劇薬による肉体の崩壊の痛みも、長時間の戦闘では命取りになる。
しかし、ヴァンの瞳には一切の絶望も、疲労の色も浮かんでいなかった。
彼の「虚無の器」は、どれほど首が再生しようとも、ただ目の前の障害を排除するという純粋な意志だけを保ち続けている。痛覚の遮断は、彼に限界を超えた無限の継戦能力を与えていた。
(斬るだけでは死なない。ならば……)
ヴァンは一本の杭の上で静かに姿勢を低くし、ヒュドラの九つの首の動き、そしてその奥にある巨大な胴体の魔力の流れを鋭い観察眼で読み解き始めた。
竜殺しの英雄の記憶が、彼に「確実な死を与えるための理」を囁きかけている。
仲間たちが作ってくれたこの舞台で、決して後れをとるわけにはいかない。
果てしなく続く再生の呪いを断ち切るための、致命の一撃を放つべく、ヴァンは赤銅色に輝く斬馬刀を上段へと静かに構え直した。




