第72話 完璧な舞台と非戦闘員の意地
多頭蛇の咆哮が、紫色の毒沼を大きく波立たせていた。
九つの凶悪な首が空高くもたげられ、ぽたぽたと滴る猛毒の唾液が沼に落ちるたび、シュウシュウと不気味な白煙が上がる。
「あの毒沼に一歩でも足を踏み入れれば、鋼鉄のブーツだろうと数秒で泥のように溶かされるぞ。戦士が近接戦闘を挑むには、あまりにも環境が最悪だ」
バルガンが操縦席の計器を叩きながら叫ぶ。
「ならば、俺が道を作る!」
隻腕のドワーフは、要塞の操作盤に新たな歯車を瞬時に組み込んだ。
「ルミナが買ってきた特殊鉱石の残材と、ワームの装甲殻の余りを圧縮して作った特製の『杭』だ! 結界の出力の一部を射出機構に回すぞ!」
バルガンが巨大なレバーを限界まで押し込むと、要塞の側面から幾つもの射出口が展開された。
ガシュゥゥゥンッ!
重低音と共に、長さ三メートルを超える巨大な装甲杭が次々と毒沼に向かって射出される。それらは猛毒の泥を強引に突き破り、底にある強固な岩盤に深く突き刺さった。
特殊なコーティングが施された装甲杭はヒュドラの毒に溶けることなく、巨体の足元まで続く「絶対安全な飛び石の足場」を瞬く間に形成した。
「足場はできた。だが、奴の吐く毒霧を吸い込み続ければ、いくら大将でも肺が腐り落ちるぞ」
バルガンの言葉に呼応するように、今度はルミナが前へ出た。
彼女の小さな両手には、先日の闇ギルドの金庫から奪い取った、透き通るような青色に輝く小瓶が握られている。
「ヴァンさん、これを! 西の大陸の霊薬、『星海竜の血清』です!」
ルミナは小瓶の蓋を開け、その中身を惜しげもなくヴァンの外套と漆黒の斬馬刀の刀身に振りかけた。
「ヒュドラの毒は血液を急速に腐敗させる強力な酸性。この血清を纏っていれば、毒霧や毒液が空気に触れた瞬間に強制的に中和され、無効化されます。私が相場と品質を完全に保証する、最高級の防毒処置です!」
「助かる、ルミナ。これで憂いなく斬り込める」
ヴァンが刀身に青い光を纏った斬馬刀を構え直す。
「ちょっと待ちな、まだ俺のメインディッシュが残ってるぜ!」
厨房から飛び出してきたバクスが、湯気を立てる小さな丸薬のようなものをヴァンの口元に差し出した。
「氷河の猪の超高カロリーな脂と、烈風の怪鳥の肝を限界まで濃縮した『激昂のミートボール』だ。こいつを腹に入れれば、一時的に基礎筋力と動体視力が三倍に跳ね上がる。ただし、普通の人間なら筋肉が破断する激痛でのたうち回る劇薬だがな」
「……俺の器には、何の問題もない」
ヴァンは躊躇うことなくその肉団子を噛み砕き、飲み込んだ。
瞬間。
ヴァンの巨体が、さらに一回り膨張したかのような錯覚を周囲に与えた。
彼自身の魔力回路が爆発的に活性化し、太い血管が肌の表面に浮き上がる。痛覚を持たぬ虚無の器は、劇薬による筋組織の崩壊の痛みを完全に無視し、純粋な「力」の恩恵だけを完璧に引き出していた。
建築家が足場を築き。
商人が最高の防毒を用意し。
料理人が肉体の限界を突破させる。
彼らは誰一人として、直接剣を振るうことはできない。
しかし、彼らの持つ異端の技術と知識が一つに結集することで、ヴァンという最強の戦士の能力は、常識の枠を完全に超えた次元へと昇華されていた。
「完璧な舞台ね。みんな、本当に素晴らしい仕事ぶりよ」
セリアが深い青の外套を翻し、感嘆の声を上げる。
彼女はゆっくりとヴァンの隣に立ち、毒沼で暴れ狂い、こちらを威嚇する多頭蛇を見据えた。
「さあ、ヴァン。仲間たちが作ってくれたこの最高の舞台で、最強の竜殺しの剣を振るいなさい」
「ああ。あいつらの完璧な仕事に、俺の剣で応える」
ヴァンは青い血清を纏った斬馬刀を下げたまま、静かに息を吐き出した。
そして、劇薬によって三倍に跳ね上がった脚力で床を蹴り、バルガンが打ち込んだ最初の一本目の杭へと、砲弾のような速度で跳躍した。
最強の支援を受けた虚無の戦士と、災害級の魔物との死闘が、毒沼のただ中で幕を開ける。




