第68話 猛毒の影と商人の逆襲
執務室の床に、ザルツの絶叫が響き渡っていた。
右腕の腱を漆黒の小太刀で正確に断ち切られ、大量の血を流しながら大理石の床を転げ回る商会主。その無様な姿を一瞥もせず、ヴァンは双つの刃を構えたまま、部屋の奥に立つ隻眼のギルドマスターへと静かに歩み寄った。
「貴様……ただの戦士ではないな。その影に溶け込む異常な技術、暗殺ギルドの長老クラスですら到底及ばないぞ」
隻眼の男は顔面を蒼白にしながらも、裏社会を束ねる者としての意地を見せ、懐から赤黒く濁った召喚魔石を引きずり出した。
「だが、ここが私の根城である以上、生きて帰れると思うな! 喰らい尽くせ、宵闇の毒百足よ!」
男が魔石を床に叩きつけると、ドロドロとした黒い瘴気が渦を巻き、体長五メートルを超える巨大な多足の魔物が姿を現した。
闇属性の魔力で構成された百足。その無数の足はすべてが鋭い刃となっており、顎からは大理石の床を瞬時に溶かすほどの猛毒が滴り落ちている。閉鎖された空間である地下執務室において、これほど厄介な召喚獣はいない。
「死ね! その巨体を猛毒の刃で切り刻んでやる!」
ギルドマスターの号令とともに、毒百足が凄まじい速度で壁や天井を這い回り、ヴァンに向かって全方位から襲いかかった。
無数の刃の足が虚空を切り裂き、猛毒の雨が室内に降り注ぐ。ルミナが恐怖に身をすくめ、顔を両手で覆った。
しかし、伝説の暗殺者の魂と同化したヴァンは、その暴虐の嵐の中で、まるで舞を踊るかのように軽やかに身を翻した。
極限まで脱力した関節の動きと、影から影へと滑る歩法。百足の刃がヴァンの体を切り裂いたかに見えても、それは彼が直前までいた場所に残された影の残滓に過ぎない。
「ちょこまかと……っ! だが、完全には避けきれていないぞ!」
ギルドマスターが嘲笑する。
確かに、密室での猛毒の雨を完全に回避することは不可能だった。ヴァンの頬や腕にわずかな切り傷が入り、そこから百足の猛毒が体内へと侵入していた。
通常の人間であれば、この毒が血液に混じった瞬間に全身の神経が焼き切れるような激痛に襲われ、一歩も動けなくなるはずだった。
だが、ヴァンの動きはコンマ一秒たりとも鈍らなかった。
彼の「虚無の器」は痛覚を完全に遮断しており、毒による神経へのダメージを脳が一切知覚しないのだ。筋肉の細胞が死滅し始める前に、彼は最短距離で死の軌道を描き出す。
「な……なぜ動ける!? 私の毒百足の毒は、巨象ですら一瞬で即死させるほどの……」
驚愕に目を見開くギルドマスターの言葉は、最後まで続かなかった。
ヴァンは壁を蹴って宙を舞うと、自らを迎え撃とうと鎌首をもたげた百足の懐へと、一切の風切り音を立てずに潜り込んだ。
両手の漆黒の小太刀が、流れるような十字の軌跡を描く。
「暗殺の極意は、殺気すらも削ぎ落とすことだ」
囁くようなヴァンの声とともに、漆黒の刃が百足の魔力核が位置する頭部から胴体にかけてを、完璧な精度で両断した。
断末魔を上げる間もなく、巨大な毒百足はドロドロの瘴気へと還元され、霧散していく。
「あ、ああっ……」
ギルドマスターが絶望に後ずさる。しかし、ヴァンはその背後に広がる男自身の影から、すでに立ち上がっていた。
「終わりだ」
冷徹な宣告。漆黒の小太刀が、隻眼の男の首筋に深々と突き立てられ、魔力回路と頸椎を同時に破壊した。
裏社会を支配していた闇ギルドの長は、自分がいつ斬られたのかすら理解できないまま、崩れ落ちて絶命した。
部屋に再び、重苦しい静寂が戻った。
残されたのは、血溜まりの中で恐怖に歯の根を合わさず震えるザルツと、壁際で呆然とヴァンを見つめるルミナだけである。
ヴァンは手にしていた小太刀を霧散させ、静かに同化を解除した。
暗殺者の記憶が体から抜け落ち、巨漢の戦士としての重厚な存在感が戻ってくる。彼が息を吐き出すと、傷口から侵入していた猛毒が黒い血となってわずかに排出された。
「ヴァンさん……っ!」
ルミナが駆け寄り、自分の袖を引きちぎってヴァンの傷口を強く押さえた。
「毒が……! 早く解毒薬を飲まないと……!」
「問題ない。この程度の毒、バクスのスープを飲み続けて拡張された俺の器なら、半日もすれば勝手に中和される」
ヴァンは淡々と答え、ルミナの頭にポンと無造作に手を置いた。
「怪我はないか、ルミナ」
その不器用で温かい掌の感触に、ルミナの目から再び大粒の涙が溢れ出した。
「はい……私は、大丈夫です。でも、私のためにここまで……」
「仲間を奪い返しに来るのは当然だ。それに、この街の腐った連中を掃除する良い機会だった」
ヴァンがそう言うと、開け放たれた扉から、セリアが静かな足取りで室内へと入ってきた。
「本当に、見事な制圧劇だったわ。これでこの地下にいる闇ギルドの兵力は完全に沈黙したわよ。バクスとバルガンも、逃げようとした残党を上でしっかりと捕まえているみたい」
セリアが優雅に微笑みながら、床に転がるザルツを見下ろした。
「ひ、ひぃぃ……っ! た、助けてくれ! 命だけは……!」
ザルツが涙と鼻水に塗れながら命乞いをする。
ヴァンはザルツの胸ぐらを掴んで引きずり起こし、冷ややかな視線を向けた。
「俺はお前を殺すつもりはない。だが、ルミナを散々利用し、不当に搾取し続けた代償は、きっちりと払ってもらう」
ヴァンはルミナの方を振り返った。
「ルミナ。この部屋にあるものの中で、俺たちの旅に役立つもの、価値のあるものをすべて見繕え。俺たちはこれから、こいつらの財産を正当な慰謝料として頂いていく」
その言葉を聞いた瞬間。
ルミナの瞳から涙がスッと引き、代わりに商人としての鋭い光が宿った。
「……分かりました」
彼女は立ち上がり、ザルツの執務机へと一直線に向かった。
壁に掛けられた絵画の裏、引き出しの隠し底、さらには床の絨毯の下。ルミナはハーフエルフの鋭い魔力感知と、商会で奴隷として働かされていた間に培った知識を総動員し、隠された金庫や秘密の収納庫を次々と暴いていった。
「やっぱりありました。この街の領主や、高位召喚師たちとの不正な裏取引を記録した裏帳簿です。これがあれば、奴らは私たちを追うどころか、自分の首を守るために金貨の天秤商会を切り捨てるしかなくなります」
ルミナは分厚い革張りの帳簿を掲げ、誇らしげに言った。
さらに彼女は、金庫の中から大量の白金貨、純度の高い魔石、そして西の大陸でしか採れないという希少なポーションの数々を次々と大きな袋に詰め込んでいく。
「ざ、私の全財産が……! やめろ、それは私が一生かけて築き上げた……」
「黙りなさい」
ルミナが冷たく言い放つ。
「あなたが築き上げたのではありません。私や、裏通りで日陰を歩くしかない弱い者たちから、暴力と嘘で奪い取ったものです。これは、私たちが新しい国を創るための資金として、有効に活用させていただきます」
かつて怯えることしかできなかった少女の、凛とした宣言。
その姿を見たヴァンは、満足げに頷いた。
「よく言った。俺たちの財務と物資調達は、すべてお前に任せる」
「はいっ。一銅貨たりとも無駄にはしません。私に任せてください」
ルミナは大きな荷袋を背負い、晴れやかな笑顔を見せた。
闇に支配されていた交易都市の裏社会は、一人の規格外の戦士と、その仲間に引き入れられた有能な商人によって、完全に浄化された。
膨大な資金と物資、そして街の権力者を黙らせる最強の切り札を手に入れたヴァンたちは、夜明け前の暗闇の中、静かにスラム街を後にするのだった。




