第67話 影の支配者と地下迷宮の粛清
スラム街の地下深くには、交易都市ファルガーの光が一切届かない巨大な闇の迷宮が広がっていた。
かつての地下水道を不法に拡張して造られた、闇ギルド「宵闇の梟」の本拠地。冷たい石造りの通路には松明が等間隔で掲げられ、重武装の私兵たちが厳しい巡回を行っている。彼らは皆、高位の魔法防壁を常時展開し、少しでも不審な魔力の揺らぎがあれば即座に警報の魔石を鳴らすよう訓練された裏社会のエリートたちだ。
しかし、その鉄壁の警備網は、一人の戦士によって音もなく蹂躙されようとしていた。
松明の炎がわずかに揺れ、壁に落ちた濃い影が不自然に伸びる。
次の瞬間、その影の中から漆黒の短剣が音もなく滑り出し、見張りの私兵の頸動脈を正確に切断した。
「が、は……っ」
悲鳴すら上げることはできない。気管を同時に断ち切られた私兵は、崩れ落ちる前に背後から伸びた巨大な腕に抱き留められ、一切の音を立てることなく暗闇へと引きずり込まれた。
伝説の暗殺者の魂と同化したヴァンである。
巨漢でありながら、その足運びには一切の体重が乗っていないかのように軽やかで、鎧の擦れる音一つしない。通常、これほど高度な隠密行動をとれば、極度の緊張と殺意が魔力の波長となって周囲に漏れ出すものだ。しかし、ヴァンの心にある底知れぬ「虚無の器」は、暗殺行為に伴う一切の感情の揺らぎや殺気を完全に呑み込み、周囲の空間から彼の存在感を文字通り消し去っていた。
「驚異的ね……。魔法による透明化や空間転移ではなく、純粋な技術と精神の制御だけで、完璧な影と化している」
通路の奥、魔法で姿を隠しながら追従するセリアが、感嘆の吐息を漏らす。
ヴァンの手には、暗殺者の記憶から具現化した漆黒の魔力の小太刀が二振り握られている。この刃は物理的な肉体だけでなく、相手が展開している魔法防壁の魔力回路の結び目を正確に見抜き、音もなく解体してすり抜ける性質を持っていた。
「次、三人来るぞ」
影の中からヴァンの低い声が響く。
通路の曲がり角から、新たな私兵の小隊が足音を鳴らして近づいてくるのが見えた。
ヴァンは自ら動くことはせず、壁の影に深く沈み込んだ。
私兵たちがヴァンの潜む影の真横を通り過ぎようとした瞬間。ヴァンは滑るように背後へ回り込み、両手の小太刀を交差させるように振るった。
一振り目が、最後尾の男の延髄を貫く。二振り目が、振り返ろうとした二番目の男の心臓を肋骨の隙間から正確に穿つ。
「なっ……敵襲……!」
先頭を歩いていた小隊長が異常に気づき、腰の剣を抜いて警報の魔石を鳴らそうとした。しかし、ヴァンはすでに小隊長の懐へと潜り込んでいた。
ヴァンは小太刀を持つ右手を反転させ、柄の底で小隊長の顎を強烈に突き上げた。脳を激しく揺らされ、意識を刈り取られた男が崩れ落ちるのを、ヴァンは左手で静かに受け止める。
わずか数秒の間に、三人の熟練の兵士が、誰一人として剣を交えることすらできずに絶命し、あるいは気を失っていた。
戦闘というよりは、あまりにも一方的で完璧な「作業」だった。
「上の階層の警備は粗方片付いた。バクスとバルガンには、このまま出入り口の封鎖を維持させろ」
ヴァンは血のついた小太刀を無造作に振り払い、さらに地下深くへと続く階段を見下ろした。
彼には痛覚がないため、暗殺者の異常な関節の動きや筋肉の酷使による疲労を一切感じていない。どこまでも冷徹に、機械のように命を刈り取っていくその姿は、まさに死の代行者そのものだった。
一方、地下迷宮の最下層にある豪奢な執務室。
そこには、金貨の天秤商会のザルツと、闇ギルド「宵闇の梟」のギルドマスターである隻眼の男が、重厚な革張りのソファーに腰を下ろしていた。
部屋の中央には、後ろ手に縛られ、床に座らされたルミナの姿があった。
彼女の頬は赤く腫れ上がり、先ほどまで激しい尋問を受けていたことを物語っている。
「さあ、さっさと手紙を書け、ハーフエルフ。お前を助けたあの忌々しい戦士どもに、アーティファクトと要塞を持ってこの地下へ来いとな。そうすれば、お前の命だけは助けてやると言っているんだ」
ザルツが忌々しそうにルミナを見下ろし、革靴の爪先で彼女の肩を小突いた。
商会を潰され、莫大な富を失った彼の顔には、狂気じみた復讐心と強欲が浮かんでいる。
しかし、ルミナは顔を上げ、ザルツを真っ直ぐに睨み返した。
恐怖で身体は震えていたが、その大きな瞳には、かつて路地裏で蹲っていた時のような絶望の光はなかった。
「……お断りします」
ルミナの凛とした声が、執務室に響く。
「私は、ヴァンさんたちに商人としての価値を認めてもらいました。あの人たちは、私を仲間だと呼んでくれた。私の命のために、あの方たちの旅の拠点と財産を奪うような真似は、商人として、絶対に承服できません」
「この出来損ないが! 状況が分かっていないのか!」
ザルツが激昂し、ルミナの髪を掴んで無理やり引き上げた。
「我々宵闇の梟を敵に回して、生きてこの街を出られると思うな。お前があの手紙を書かなくとも、あいつらはいずれ我々の暗殺者に首を刈り取られる。お前はただの餌にすぎないんだよ!」
闇ギルドのマスターである隻眼の男も、冷酷な笑みを浮かべて立ち上がった。
「その通りだ。今頃、地上に放った我々の影渡りの暗殺者たちが、お前の仲間どもを血祭りに上げている頃だろうよ。さあ、大人しく手紙を……」
隻眼の男が言いかけた、その言葉は最後まで続かなかった。
ギィィィ、と。
分厚い鉄の扉が、外側からゆっくりと押し開かれたのだ。
「なんだ? 誰だ、勝手に入ってくる奴は。見張りは何をしている!」
隻眼の男が怒鳴るが、扉の向こうからは何の返答もない。
開け放たれた扉の先、薄暗い廊下には、この部屋を警護していたはずの数十人の私兵たちの姿はなかった。
ただ、壁際に沿って、全員が首や心臓を正確に貫かれ、物言わぬ屍となって等間隔で転がっているという、異常な光景だけが広がっていた。
「な……なんだ、これは……」
ザルツがルミナの髪から手を離し、後ずさりをする。
そして、執務室の壁に落ちていたザルツ自身の影から。
音もなく、一人の巨漢の戦士が浮かび上がった。
「お前たちの暗殺者なら、もう死んだ。お前たちが送った数より少し多かったが、すべて片付けてきた」
地獄の底から響くような、ヴァンの冷酷な声。
ザルツが悲鳴を上げて振り返るより早く、漆黒の小太刀が閃き、ザルツの右腕の腱を正確に断ち切った。
「ぎゃあぁぁぁぁッ!?」
血飛沫が舞い、ザルツが床に転げ回る。
ルミナは目を見開き、自らの背後に降り立った影の支配者を見上げた。
「ヴァン、さん……」
「遅くなったな、ルミナ。首輪の鎖の根元ごと、今ここで完全に断ち切ってやる」
ヴァンは両手に握った漆黒の小太刀を順手に構え直し、部屋の奥で顔面を蒼白にしている闇ギルドのマスターを静かに見据えた。
一切の音を立てず、確実に命を奪う暗殺者の刃が、裏社会の頂点に向けられた瞬間だった。




