第64話 解き放たれた鎖と商人の眼光
引き裂かれた魔法契約書の破片が、豪奢な大理石の床へと力なく舞い落ちた。
魔力による強制的な束縛が断ち切られた証拠として、羊皮紙の残骸は空気に触れた端から黒い灰となって崩れ去っていく。
金貨の天秤商会のメインホールは、水を打ったような静寂に包まれていた。絶対的な権力と富を誇っていた商会主のザルツは、豪華な椅子にへたり込んだまま、声一つ発することができない。高位の専属召喚師ギデオンもまた、自らの最強の召喚獣を物理的に粉砕された絶望から抜け出せずにいた。
ヴァンは周囲に倒れ伏す傭兵たちを一瞥し、静かに踵を返した。
行くぞ、ルミナ。
その低く落ち着いた声に、ハーフエルフの少女はビクッと肩を震わせた。彼女はまだ、目の前で起きた現実をうまく呑み込めずにいた。
一生背負うはずだった莫大な借金。自分を奴隷として縛り付けていた呪いの契約。それらが、たった一人の戦士の理不尽なまでの暴力によって、文字通り木端微塵に粉砕されてしまったのだ。
あ、はい……っ!
ルミナは慌ててヴァンの広い背中を追いかけた。セリア、バクス、バルガンの三人も、それぞれ商会の連中に冷ややかな視線を向けた後、悠然とホールを後にする。
交易都市の表通りを抜け、人目のつかない路地裏へと入ったところで、ルミナの足が唐突に止まった。
彼女の丸みを帯びた耳が微かに震え、大きな瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出し、石畳の地面にぽたりと落ちる。
ルミナは胸元を両手で強く押さえた。
商会に縛られていた間、ずっと心臓に巻き付いていた見えない鎖の重みが、完全に消え去っている。もう、誰の顔色を窺って不良在庫を売り捌く必要もない。理不尽な暴力に怯える夜もないのだ。
どうして……。
ルミナは嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
どうして、私なんかのために……。エルフの出来損ないで、誰からも見下されるハーフエルフのために、どうしてあんな危険な真似を……っ。
彼女の涙は、長年溜め込んでいた恐怖と絶望、そして突然与えられた自由への戸惑いが入り混じったものだった。
ヴァンは立ち止まり、泣き崩れる少女を静かに見下ろした。慰めの言葉をかけるでもなく、ただ彼女の感情が落ち着くまで、根気よく待つ。
やがて、ルミナが涙を拭い、顔を上げたのを見計らって、ヴァンは口を開いた。
勘違いするな。同情や哀れみでお前を助けたわけじゃない。
ヴァンの言葉は冷徹にすら聞こえたが、その瞳には確かな信頼の光が宿っていた。
俺は、お前の持つ商人の知識と、物の真価を見抜く目が欲しかっただけだ。俺たちはこれから、地図にない魔境の深部を切り拓き、どの国にも属さない新たな拠点を作る。そこに、お前の力が必要だと言ったはずだ。
その言葉に、ルミナはハッと息を呑んだ。
この戦士は、自分を「可哀想なハーフエルフ」として扱っているのではない。自分の中に眠る「商人としての価値」を正当に評価し、対等な仲間として迎え入れようとしてくれているのだ。
そうよ。ヴァンの目に狂いはないわ。
セリアが優雅に歩み寄り、ルミナの肩にそっと手を置いた。
あなたには、あの腐った商会の連中にはない、本質を見抜く目がある。私たちの旅は過酷だけれど、あなたの商人としての夢を叶えるには、一番の近道になるはずよ。
おうおう、湿っぽいのはこれくらいにしようぜ。
バクスが大きな荷袋を揺らしながら、カラカラと笑った。
借金がなくなったのはめでたいが、俺たちはまだ今日の買い出しを終えちゃいない。早く塩と香辛料を買って拠点に戻らねえと、晩飯のスープが薄味になっちまう。
まったくだ。俺の要塞の改造部品もまだ揃ってねえ。だが、あんな派手な騒ぎを起こしちまったからな。今頃、街の衛兵どもが血眼になって俺たちを探し始めてる頃だぞ。
バルガンが忌々しそうに路地の入り口を睨みつける。
金貨の天秤商会は街の領主とも癒着している。これ以上、表通りを堂々と歩いて買い物を続けるのは危険だった。
それを聞いたルミナは、両手でパンッと自分の頬を叩いた。
残っていた涙が吹き飛び、彼女の瞳に、先ほどまでの弱々しい少女とは全く別の、鋭く計算高い「商人」の光が宿る。
……お任せください。
ルミナが立ち上がり、スカートの土を払って力強く宣言した。
この街の流通は、あの商会がすべてを握っているわけではありません。裏通りには、権力に屈しない腕の良い職人や、良心的な闇商人がたくさん隠れています。私が、衛兵の目を掻き潜って、あなたたちが求める最高の品を、適正価格で手配してみせます。
その頼もしい言葉に、ヴァンは微かに口角を上げた。
ああ。頼む。
ルミナの先導で、五人は交易都市の複雑な路地裏を迷路のように進んでいった。
彼女の頭の中には、街のすべての道と、どの店にどんな品があるかの情報が完璧に網羅されていた。
まずは、バクスの求める香辛料の店。
ルミナは表通りには絶対に顔を出さない、獣人の老人が営む地下の倉庫へと彼らを案内した。
おじいさん、西の砂漠から入ったばかりの赤胡椒と、岩塩を樽で一つお願い。それと、足元を見ないでね。この人たちは私の新しい『お得意様』なの。
ルミナの淀みない交渉術と、相場を完璧に把握した価格提示に、気難しい獣人の老人も舌を巻き、最上級の香辛料を格安で譲ってくれた。バクスは匂いを嗅いだだけでその品質の高さに狂喜乱舞した。
次は、バルガンが求める金属部品だ。
ルミナはドワーフの職人が集まるスラムの奥深くへと足を踏み入れた。
この先の工房にいるのは、商会の専属になることを拒んで干されている凄腕の鍛冶師です。バルガンさんの求める特殊な歯車も、彼なら持っているはず。
ルミナの言葉通り、そこにはバルガンが唸るほどの精巧な部品が山のように眠っていた。ルミナは言葉巧みに職人のプライドをくすぐりながら、バルガンが提示した予算の半分で、目的の部品をすべて買い上げてしまった。
すげえな、この小娘……。俺が自分で交渉してたら、確実に倍の値段を吹っかけられてたぞ。
バルガンが信じられないものを見る目でルミナを見つめる。
商人ですから。物の価値と、相手の懐具合を見抜くのが私の仕事です。
ルミナは胸を張り、エルフ特有の丸みを帯びた耳を誇らしげに揺らした。
すべての買い出しを終え、衛兵の捜索網が裏通りに及ぶ前に、ヴァンたちは交易都市の城壁を抜けて森へと帰還した。
木陰に隠されていた鋼殻の移動要塞を見た瞬間、ルミナは商人としての目を丸くして驚愕の声を上げた。
な、なんですかこの巨大な要塞は! ロック・ワームの装甲殻に、星脈の核を直列接続!? これほどの代物、王族の馬車だって到底及びませんよ!
へへっ、どうだ。俺の最高傑作だ。お前が買い集めてくれた部品で、さらに快適に改造してやるからな。
バルガンが鼻高々に笑い、要塞の扉を開く。
中からは、すでにバクスが仕込んでいた魔物肉のシチューの温かい匂いが漂ってきた。
ようこそ、ルミナ。これが俺たちの旅の拠点だ。
ヴァンが要塞の入り口で立ち止まり、振り返ってハーフエルフの少女に手を差し伸べた。
ルミナはその大きく無骨な手をじっと見つめ、そして、溢れ出しそうになる涙を今度は笑顔で堪えながら、力強くその手を握り返した。
はい……! よろしくお願いします、ヴァンさん!
冷遇され、搾取され続けてきたハーフエルフの商人は、こうして最強の異端者たちのパーティーへと正式に迎え入れられた。
彼らの旅は、新たな仲間と豊富な物資を得て、魔境のさらに奥深くへと力強く歩みを進めていくのだった。




