第63話 黄金の天秤と氷の処刑人
大理石で造られた豪奢な扉が、ヴァンの蹴り一発で凄まじい轟音とともに吹き飛んだ。
金貨の天秤商会の本部、その一階に広がる広大なメインホール。天井からは高価な発光魔石をふんだんに使ったシャンデリアが吊るされ、床には赤い絨毯が敷き詰められている。外の裏通りで日々のパンすら買えずに震えている者たちがいる一方で、ここでは常軌を逸した富が誇示されていた。
突然の扉の破壊に、ホールで商談をしていた商人たちや護衛の傭兵たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
その喧騒の中心、ホールの最奥に置かれた一際豪華な執務机の奥で、恰幅の良い男が顔を真っ赤にして立ち上がった。彼こそが、この交易都市の流通を牛耳り、ルミナを借金漬けにした張本人、商会主のザルツである。
「何の騒ぎだ! 警備の連中は何をしている!」
ザルツの怒声が響く中、土煙を抜けて一人の巨漢の戦士が静かにホールへと足を踏み入れた。その後ろには、深い青の外套を羽織った召喚師の少女、獣人、ドワーフ、そして顔を青ざめさせたハーフエルフのルミナが続いている。
「き、貴様は……。それに、そこの出来損ないのハーフはルミナか。商会から逃げ出した挙句、薄汚い戦士をけしかけてこの私に刃向かおうというのか!」
ザルツはヴァンの姿を一瞥し、すぐに侮蔑の笑みを浮かべた。召喚術至上主義のこの世界において、戦士などいくら図体が大きかろうが、所詮は魔法の前にひれ伏すだけの肉の盾でしかないと信じ切っているのだ。
「刃向かうつもりはない。ただの取引だ」
ヴァンは漆黒の斬馬刀を鞘に収めたまま、静かな足取りでザルツへと歩み寄る。
「ルミナの借金の証文を出せ。法外な利子と認識阻害で縛り付けた、魔法契約書だ」
「はっ、ふざけるなよ底辺が! あれは血の契約だ。仮に金貨百枚を積まれたところで、あのハーフエルフが一生私の商会で奴隷として働く事実は変わらん! おい、ギデオン! この野蛮な戦士の四肢を細切れにして、裏通りに放り出せ!」
ザルツが指を鳴らすと、彼の傍らに控えていたローブ姿の痩身の男が一歩前に出た。
商会が誇る高位の専属召喚師である。彼は冷酷な瞳でヴァンを見下ろし、杖を高く掲げた。
「戦士風情が、私の召喚獣の前に立つことすらおこがましい。消し炭となれ」
ギデオンの詠唱とともに、ホールの中央に血のように赤い魔法陣が展開された。
室内の温度が急激に上昇し、絨毯が焦げる嫌な匂いが漂い始める。魔法陣から咆哮とともに姿を現したのは、体長四メートルを超える赤銅色の巨鬼だった。全身から沸騰するような高熱の蒸気を噴き出し、手には巨大な鉄の金棒を握っている。
「行け、沸血の紅鬼よ! その男を叩き潰せ!」
紅鬼が鼓膜を破るような咆哮を上げ、ヴァンに向かって突進を開始した。
その凄まじい熱量と質量に、ルミナが絶望の悲鳴を上げてしゃがみ込む。
しかし、ヴァンの背後に立つセリアは、恐れるどころか優雅な笑みを浮かべて前に進み出た。
「高位の召喚獣とはいえ、力と熱に任せただけの単調な怪物。室内でそのような品のないものを呼び出すなんて、三流の証ね。ヴァン、あんなむさ苦しい熱気、あなたの器で凍らせてしまいなさい」
セリアが両手を広げ、高く澄んだ声で詠唱を紡ぐ。
「北方の凍てつく大聖堂にて、ただ一人で異端を断罪せし冷徹なる異端審問官。罪人の血を凍らせ、決して逃れられぬ裁きを下す氷の処刑人よ。その冷厳なる断罪の記憶を、今この器に宿したまえ」
虚空に、ダイヤモンドダストを伴う白銀の魔法陣が展開される。
そこから現れたのは、純白の長コートを身に纏い、氷のように冷酷な瞳をした長身の審問官の幻影だった。手には、冷気を纏った細身の刃が握られている。
幻影は音もなくヴァンの巨体へと同化した。
「同化召喚・氷の処刑人」
ヴァンの周囲の空気が一変した。
先ほどまでホールを支配していた紅鬼の熱気が、ヴァンの足元から広がる絶対零度の冷気によって急速に相殺されていく。ヴァンの吐く息は真っ白に染まり、その瞳には、一切の感情を排した処刑人の絶対的な冷酷さが宿っていた。
彼は背中の斬馬刀をゆっくりと引き抜く。
すると、漆黒の刀身に白銀の冷気が纏わりつき、空気中の水分が凍りついて、斬馬刀の刃をさらに鋭く、残酷な形状へと変えさせた。
「グオォォォォォッ!」
紅鬼が灼熱の鉄棒を、ヴァンの頭上から力任せに振り下ろす。
直撃すれば大理石の床ごと粉砕される一撃。しかし、ヴァンは回避すらしなかった。
彼は極限まで無駄を省いた動きで斬馬刀をすり上げ、振り下ろされる鉄棒の軌道にそっと刃を添えた。
氷の処刑人の記憶がもたらす、完璧な力の受け流し。そして何より、刃が触れた瞬間、ヴァンの斬馬刀から紅鬼の鉄棒へと、細胞を死滅させるほどの絶対的な冷気が一瞬にして伝播した。
ピキピキピキッ。
紅鬼の鉄棒が、そして太い両腕が、一瞬にして真っ白な霜に覆われ、凍りついていく。
「ガ、アァァ……!?」
自身の沸騰する血が凍りつき、紅鬼が驚愕に動きを止めた。
ヴァンはその隙を見逃さない。痛覚を遮断した彼の肉体は、氷の処刑人の冷気による筋肉の強張りを一切無視して、神速の連撃を繰り出した。
「断罪」
短い呼気とともに、白銀の軌跡が宙に描かれる。
一撃目が、凍りついた鉄棒と紅鬼の右腕を粉々に砕き散らす。
二撃目が、紅鬼の分厚い胴体の装甲を両断し、内部の灼熱の血を完全に凍結させる。
そして三撃目。流れるような身のこなしで紅鬼の背後に回り込んだヴァンは、斬馬刀を水平に振り抜き、巨鬼の首を正確に刎ね飛ばした。
首を失った紅鬼の巨体が、熱を完全に奪われた氷の彫像のように崩れ落ち、大理石の床の上で粉々に砕け散った。
「ば、馬鹿な……。私のAランク召喚獣が、戦士の剣撃だけで……!」
専属召喚師のギデオンが、信じられないものを見るように後ずさり、腰から床に崩れ落ちた。
魔法防壁すら張れない戦士が、魔力を持った召喚獣を正面から物理的に破壊するなど、彼らの常識では絶対にあり得ない光景だったのだ。
「相変わらず、無茶苦茶な腕力と技術だぜ」
後方で見ていたバルガンが、呆れたようにため息をつく。
「へへっ、あの赤い化け物、一瞬で冷凍肉になっちまったな。これじゃ俺の料理にも使えねえや」
バクスが肩をすくめて笑う。
そして、ルミナはただ一人、震える両手で口元を覆い、自分を縛り付けていた絶対的な恐怖の象徴が、一人の戦士によっていとも容易く粉砕された事実を、涙を浮かべながら見つめていた。
ヴァンは斬馬刀から冷気を霧散させ、静かに同化を解除した。
そして、床にへたり込んでいるザルツの執務机の前に立ち、刃先をピタリと商会主の喉元に突きつけた。
「ひぃぃぃッ! ま、待て! 金か! 金ならいくらでも払う! だから命だけは……!」
ザルツが顔面を蒼白にし、豪華な椅子の上で無様に震え上がる。
「金には興味がない。契約書を出せと言っている」
ヴァンの低く、一切の感情を交えない声がホールに響く。
ザルツは震える手で執務机の引き出しを開け、厳重に魔力封印が施された羊皮紙の束を取り出した。ルミナの血でサインが刻まれた、呪いの魔法契約書である。
ヴァンはそれを受け取ると、視線すら落とすことなく、素手で羊皮紙を真っ二つに引き裂いた。
バチバチッと魔力が弾ける音がし、ルミナを縛っていた理不尽な搾取の鎖が、完全に消滅した。
「これでお前たちは、ルミナに一切の干渉ができなくなった」
ヴァンは引き裂いた契約書をザルツの顔面に投げ捨て、斬馬刀を背中の鞘に収めた。
圧倒的な暴力による、理不尽の粉砕。それは、交易都市の闇に怯えることしかできなかったハーフエルフの少女にとって、人生を変える絶対的な救済の瞬間であった。




