第65話 新たな歯車と落日の神弓
鋼殻の移動要塞が、重厚な歯車の駆動音を響かせながら、交易都市ファルガーを囲む森を抜けていく。
外の悪路を全く感じさせない快適な車内で、ハーフエルフの少女ルミナは、大きな瞳をさらに見開いて周囲を見渡していた。
外から見れば巨大な魔物のようにも見える要塞の内部は、驚くほど機能的で温かみに溢れていた。壁面には空間を拡張する古代の魔力回路が組み込まれ、居住区画にはふかふかのベッドが並び、冷暖房を完備する魔石ストーブが優しい光を放っている。
「信じられません……。王侯貴族の馬車だって、これほど素晴らしい設備は整っていないはずです。これを、バルガンさんがお一人で設計したんですか?」
ルミナが感嘆の声を漏らすと、操縦席でレバーを握る隻腕のドワーフが、得意げに鼻を鳴らした。
「当然だ。だが、お前が裏通りで買い集めてくれた精巧な部品のおかげで、サスペンションの遊びが完璧になった。これでスープを煮込みながらでも、崖を登れるぜ」
その言葉を証明するかのように、車内の中央にある調理スペースでは、獣人のバクスが巨大な鍋をかき混ぜていた。
鍋の中でグツグツと音を立てているのは、魔境で仕留めた魔物の肉をベースにした特製の煮込みシチューだ。そこに、ルミナが交渉して手に入れた西の砂漠の赤胡椒と、最高級の岩塩が投入される。
「すげえな、この赤胡椒。少し入れただけで、魔物肉特有の泥臭さが完全に消え去って、食欲を暴走させるような極上の香りに変わりやがった。ルミナ、お前の目利きは本物だぜ!」
バクスが尻尾を激しく振りながら歓喜の声を上げる。
自分の商人としての知識と選択が、こうして仲間に直接喜ばれている。ルミナの胸の奥に、かつて商会で不良在庫を押し付けられていた時には決して感じられなかった、温かな充足感が広がっていく。
しかし、その和やかな空気を引き裂くように、バルガンが操縦席から鋭い声を上げた。
「チッ、しつこい連中だ。ヴァン、後方から嫌な羽音が近づいてきてるぞ。数は十。空からの追手だ」
バルガンの言葉に、ヴァンは無言で立ち上がり、要塞の天井に設けられたハッチへと向かった。セリアも優雅な足取りでその後を追う。
ルミナが窓から恐る恐る後方の空を見上げると、そこには交易都市の方向から猛スピードで迫り来る、十騎のワイバーン部隊の姿があった。騎乗しているのは、金貨の天秤商会の紋章を付けた暗殺部隊だ。
商会主のザルツが、借金の証文を破棄され、メンツを丸潰れにされたことへの報復として、街の裏稼業の連中を差し向けてきたのだ。
「ど、どうしましょう! ワイバーンの編隊攻撃なんて、まともな軍隊でも防ぎきれません!」
ルミナが悲鳴を上げるが、車内のバルガンとバクスは微塵も慌てることなく、ただ鼻で笑った。
「軍隊ならな。だが、うちの大将は軍隊以上の災害だぜ」
要塞の屋根に立ったヴァンは、吹き荒れる風の中で静かに後方の空を見据えた。
ワイバーン騎兵たちが、手にした魔力槍に殺意を込めて急降下してくる。
「空の敵か。セリア、届くものを頼む」
「ええ。野蛮なトカゲどもに、本物の射手の力を見せてあげるわ」
セリアが深い青の外套をはためかせ、激しい風の中で両手を天へと掲げた。
「神話の時代、天を焦がす九つの太陽を射落としたとされる絶対の射手。星を穿ち、空の理を支配する神弓の担い手よ。その必中の記憶を、今この器に宿したまえ」
虚空に、黄金色に輝く巨大な魔法陣が展開される。
そこから現れたのは、身の丈を越える巨大な長弓を手にした、神々しい闘気を纏う古代の英雄の幻影だった。幻影は空を睨みつけると、そのままヴァンの巨体へと真っ直ぐに同化した。
「同化召喚・落日の神弓手」
直後、ヴァンの両腕から黄金色の魔力が爆発的に溢れ出し、実体を持った巨大な「光の長弓」が顕現した。
通常、この神弓を引くためには、術者の神経回路を極限まで酷使し、脳を焼き切るほどの凄まじい魔力負荷がかかる。しかし、痛覚を持たず、一切の執着を捨て去ったヴァンの「虚無の器」は、その絶死の負荷を完全に無効化していた。
ヴァンは漆黒の斬馬刀を抜くことなく、光の長弓を水平に構え、黄金の弦をギリリと限界まで引き絞った。
そこに番えられたのは、魔力そのものを極限まで圧縮した、太陽のように眩い一本の光の矢。
「逃がさない」
短い呼気とともに、ヴァンは弦から指を離した。
ズガァァァァァンッ。
矢が放たれた瞬間、大気が悲鳴を上げ、衝撃波が森の木々を激しく揺らした。
放たれた一本の光の矢は、空中で十本の細い光の筋へと枝分かれし、まるで意志を持っているかのように空の軌道を捻じ曲げながらワイバーン部隊へと殺到した。
「な、なんだあれは! 避けろォッ!」
暗殺部隊の隊長が絶叫するが、遅かった。
光の矢はワイバーンの巨体を貫くことはなく、騎兵たちが手にしていた魔力槍と、彼らの騎乗用ハーネスだけを正確に撃ち抜いて粉砕したのだ。
武器と手綱を同時に失い、さらには神話の弓が放つ絶対的な威圧感に当てられたワイバーンたちは、完全にパニックに陥り、騎兵たちを振り落とさんばかりに四方八方へと逃げ散っていった。
一切の命を奪うことなく、ただ一撃で十騎の空の部隊を完全に無力化する神業。
それが、痛みを知らぬ戦士と、異端の召喚師が生み出す常識外れの力だった。
「……す、すごい。あんな魔法、見たこともない……」
窓からその光景を目の当たりにしたルミナは、へたり込みそうになる足に必死に力を込め、屋根から降りてきたヴァンを見つめた。
黄金の弓を霧散させ、静かに息を吐くその横顔には、これほどの力を振るった驕りも、疲労の色すらも全く浮かんでいない。
「これで追手はこない。バクス、飯はまだか」
ヴァンが淡々と告げると、バクスが満面の笑みで鍋の蓋を開けた。
「ちょうど出来立てだぜ。ルミナが選んだ香辛料が、極上の仕事をしてくれた。さあ、食おうぜ!」
車内のテーブルに、湯気を立てるシチューと、香ばしく焼かれたパンが並べられた。
五人が席につき、バクスがそれぞれの木の器にたっぷりとシチューをよそっていく。
ルミナは自分の前に置かれた器を両手で包み込んだ。
温かい。そして、隣には自分を奴隷の鎖から解き放ってくれたヴァンがいて、向かいには優しく微笑むセリアがいる。バクスとバルガンが、料理の味について賑やかに言い合っている。
純血のエルフからも人間からも蔑まれ、どこにも居場所がなかったハーフエルフの少女。
彼女はシチューを一口飲み込み、そのあまりの美味しさと、胸を満たす温かな感情に、ポロポロと涙をこぼした。
「……美味しい。こんなに美味しいご飯、初めて食べました……」
「これからは、毎日この飯を食うことになる。しっかり働いて、俺たちの旅路を支えろ、ルミナ」
ヴァンが不器用に、しかし確かな信頼を込めて告げる。
「はい……! 私の命に代えても、あなたたちの役に立ってみせます!」
ルミナは涙を拭い、商人としての、そして彼らの仲間としての強い決意を瞳に宿して力強く頷いた。
痛覚を持たぬ戦士、異端の召喚師、迫害された料理人、隻腕の建築家、そして冷遇された混血の商人。
理不尽な世界から不要とされた者たちは、互いの欠落を埋め合わせ、誰よりも強固な絆で結ばれた一つの家族となっていた。
鋼殻の移動要塞は、国境の交易都市を完全に後にし、地図にない魔境のさらなる深部へと向かって、力強く轍を刻んでいくのだった。




