第60話 虚無の器と深まる絆
夜が明け、魔境の深い森に清々しい朝の光が差し込み始めていた。
木々の間を縫うように差し込む朝日が、巨大な鋼殻の移動要塞を照らし出す。その外装は昨日までとは明らかに異なっていた。ロック・ワームの装甲殻の表面に、薄く透明な青白い光の膜が張り巡らされていたのだ。
要塞の内部、操縦席と隣接する動力室では、顔を油と煤で真っ黒にした隻腕のドワーフが、満足げな吐息を漏らしていた。
「完成だ。古代のアーティファクト、星脈の核の直列接続。出力はワームの魔石の数百倍。この魔力を展開して張った防御結界は、飛竜のブレスを真正面から受けても傷一つ防ぎ切るぞ」
バルガンは徹夜の作業の疲れも見せず、手元の歯車を撫でながら快哉を叫んだ。
その背後から、香ばしい肉の焼ける匂いとともに、獣人のバクスが温かい薬草茶を運んでくる。
「お疲れさん、おっさん。本当に一晩であの水晶を馬車に組み込んじまうとはな。あんたの腕も大概化け物じみてるぜ」
バクスから茶を受け取り、バルガンは喉を鳴らしてそれを飲み干した。そして、ふと真顔になり、要塞の奥にある寝室の扉へと視線を向けた。
「化け物と言えば、あいつだ。ヴァンはどうしている」
「まだ寝てるよ。昨日の夜、俺の特製スープを飲んでから泥みたいに眠りこけてる。無理もねえさ、あんな常識外れの戦いをやった直後なんだからな」
バクスの言葉に、バルガンは重々しく頷いた。
「俺はドワーフとして、これまでに数え切れないほどの魔法具や魔力回路を見てきた。だからこそ分かる。あの召喚師の娘がヴァンに降ろした深淵の悪魔という魂が、どれほどふざけた代物だったかをな」
バルガンの声には、明確な畏怖が混じっていた。
「あれは、純粋な破壊と絶望の概念そのものだ。本来なら、あんなものを人間の肉体に降ろした瞬間、細胞という細胞が内側から沸騰し、脳髄が焼き切れるほどの激痛に襲われる。そして自我を悪魔に喰い破られ、術者もろとも灰になるのがオチだ。だが、あいつはどうだ」
バルガンは震える右手で己の額を押さえた。
「あいつは、その激痛を全く感じていなかった。痛覚が完全に遮断されているからだ。だが、それ以上に恐ろしいのはあいつの精神だよ。悪魔が入り込むための隙、恐怖や絶望、欲望といった感情の揺らぎが、あいつの心には一切存在しなかった」
「虚無の器、か。セリアがそう呼んでたな」
バクスが静かに相槌を打つ。
「ああ。勇者とかいう連中にすべてを奪われ、底辺に叩き落とされたことで、あいつの心は一度完全に死んでいるんだ。だからこそ、悪魔がどれほどの絶望を流し込もうと、それは底なしの虚無に吸い込まれて消える。あいつの心にあるのは、ただ仲間を護るという、狂気的なまでの純粋な意志だけだ。……全うな人間じゃねえよ。だが、これほど背中を預けられる男も他にいない」
バルガンの言葉に、バクスも深く頷いた。
迫害され、世界から不要とされた彼らにとって、ヴァンのその異常性こそが、絶対的な安心感と希望の象徴となっていたのだ。
一方、要塞の奥にある寝室。
静かな魔石の光に照らされたベッドの上で、ヴァンはゆっくりと目を開けた。
「……目覚めたかしら、ヴァン」
傍らの椅子で一晩中付き添っていたセリアが、安堵の笑みを浮かべて覗き込む。
ヴァンは身を起こし、自身の手のひらを開き、そして握り込んだ。
昨日まで体を軋ませていた深淵の魔力の残滓は完全に消え去り、それどころか、かつてないほど全身に力と魔力が満ち溢れているのを感じた。
「体が軽い。内臓の痛みも、筋肉の強張りもない。バクスのスープのおかげか」
「ええ、それもあるわ。でも、一番の理由はあなたの器そのものが進化したからよ」
セリアはヴァンの胸元にそっと手を当て、その滑らかな筋肉の奥にある魔力回路の鼓動を確かめるように目を細めた。
「深淵の悪魔の魂は、あなたの魔力回路を一度焼き尽くす寸前まで追い込んだ。でも、バクスの万象の霊薬スープと霊水がそれを凄まじい速度で修復したことで、あなたの器は限界を超えてさらに大きく拡張されたの。今なら、あの悪魔の力をもう少し長く、安全に引き出すことも可能かもしれないわ」
「そうか。お前の持ち駒をすべて使いこなせるようになるなら、それに越したことはない」
淡々と事実だけを受け入れるヴァンの横顔を見つめ、セリアの胸の奥で、熱く激しい感情が渦を巻いた。
(この人は、本当に恐ろしい人……)
セリアは心の中で呟く。
禁忌の魂を降ろされ、一歩間違えれば自我が消滅していたというのに、彼には自分を危険に晒したセリアへの恨み言どころか、死への恐怖すら一切ない。ただ、より強い力を手に入れ、仲間を護る手段が増えたことだけを静かに肯定している。
世界から無用とされ、地下に幽閉されていた自分を引っ張り出し、その強大すぎる術のすべてを受け止めてくれる唯一の存在。
セリアは、この虚無の器を持つ戦士に対し、もはや単なる相棒という枠を超えた、絶対的な畏怖と、それを遥かに凌駕するほどの狂おしいほどの愛情と独占欲を抱き始めていた。
「ヴァン。私、決めたわ」
セリアはヴァンの胸に当てていた手をきゅっと握りしめ、紫色の瞳で真っ直ぐに彼を見つめた。
「この先、どんな強大な敵が現れようと、私はもう二度と迷わない。神でも、悪魔でも、世界を滅ぼす災厄でも……あなたが必要とするなら、私の持てるすべての魂をあなたに捧げるわ。あなたのその虚無の器を、私の術で満たし続けてみせる」
「ああ、頼む。俺の剣は、お前の魂があってこそ届く」
ヴァンは静かに頷き、ベッドから立ち上がった。
扉を開けて居住区画へと出ると、そこにはすでに朝食の準備を整えたバクスと、誇らしげに腕を組むバルガンが待っていた。
「おう、遅えぞ大将。せっかく俺がアーティファクトを組み込んで無敵の要塞を完成させたってのに、一番寝坊するとはいい度胸だ」
バルガンが憎まれ口を叩きながらも、その目には確かな信頼と親愛の色が浮かんでいる。
「待ってたぜ、ヴァン。今日は怪鳥の卵と猪の肉を使った、極上の目玉焼きと分厚いベーコンだ。星脈の核の魔力で焼いたから、火の通りが段違いだぜ」
バクスが湯気を立てる大皿をテーブルの中央にドンと置く。
「見事な馬車だ、バルガン。これなら、魔境のどこへでも行ける。バクス、飯をいただくぞ」
ヴァンがテーブルにつき、セリアもその隣に静かに腰を下ろす。
四人は一つの食卓を囲み、賑やかに朝の食事を始めた。
かつて、勇者パーティーで冷たい干し肉を一人でかじっていたヴァン。
暗い地下室で日の光を見ることなく生きていたセリア。
人間の街から石を投げられ、荒野を這いつくばっていたバクス。
才能を搾取され、己の左腕を切り落として地下に逃げ込んだバルガン。
理不尽な世界から弾き出され、すべてを失った者たち。
しかし彼らは今、この強固な移動要塞という完璧な居場所で、最高の料理と、絶対的な信頼で結ばれた仲間とともに、温かな時間を共有している。
ヴァンの異常なまでの強さと自己犠牲の精神が、バラバラだった彼らの魂を一つに繋ぎ止めたのだ。
「さて、腹も膨れたことだし、出発するぞ。この遺跡の奥から続く道は、さらに魔力が濃くなっている。いよいよ魔境の深部、地図にない未知の大地の始まりだ」
バルガンが食後の茶を飲み干し、操縦席へと向かう。
「どんな魔物が出ようと、俺たちが極上の食材に変えてやるさ。な、ヴァン」
バクスが包丁を片手に笑う。
「ああ。すべて斬り開く」
ヴァンが短く答え、セリアが隣で静かに微笑む。
重厚な駆動音とともに、星脈の核の無尽蔵の魔力を得た鋼殻の移動要塞がゆっくりと動き出した。
痛覚を持たぬ虚無の戦士と、彼を支える異端の仲間たち。
彼らの旅は、既存の国家や常識という狭い枠を完全に飛び越え、誰も見たことのない新たな理想の地を求めて、さらに激しく、そして力強く加速していくのだった。




