第59話 帰還と古代の遺産
神殿の最深部を支配していた重苦しい威圧感は、霊体の騎士の消滅とともに完全に霧散していた。
静寂を取り戻した空間には、祭壇の上で青白く輝く多面体の水晶が放つ、穏やかで清浄な魔力の波動だけが満ちている。
「ヴァン、本当に大丈夫なの。あれほどの深淵の魔力を体内に通したのよ。内臓や魔力回路がどうなっているか……」
セリアはヴァンの背中から治癒の魔法を流し込みながら、まだ微かに震える声で尋ねた。彼女の額には汗が滲み、これまでにないほどの強い焦燥感が顔に表れていた。
「問題ない。少し体が重いだけだ」
ヴァンは口元の血を乱暴に拭い、ゆっくりと立ち上がった。
痛覚が遮断されているため彼自身に苦痛はない。しかし、深淵の悪魔という強大な概念を強制的に従え、純粋な魔力そのものを焼き尽くす黒炎を振るった代償は、確実に彼の肉体を蝕んでいた。普段の滑らかな動作にはわずかな鈍りが生じ、呼吸のたびに肺の奥で微かな熱が燻っている。
「強がるな、ヴァン。お前の顔色は死人より悪いぞ」
バルガンが連射弩を背負い直し、呆れたような、しかし深い敬意の入り混じった溜息をついた。
「お前という奴の器が異常なのは嫌というほど分かったが、それにしても限度ってものがある。悪魔に自我を喰われず、力だけを引き出すなんて芸当、伝説の英雄だって不可能だ。お前は本当に……底知れない化け物だよ」
「最高の褒め言葉として受け取っておく」
ヴァンが短く返すと、バクスが足早に祭壇の横へと歩み寄り、神殿の奥から湧き出ている澄んだ泉の水を掬い上げた。
「この水、数千年の間、あの水晶の魔力を浴び続けて浄化された『霊水』だ。おいヴァン、今すぐ拠点に戻るぞ。この霊水と、俺がとっておいた最高の食材で、お前のズタズタになった体を内側から完全に修復する特効薬を作ってやる」
バクスの言葉に、ヴァンは静かに頷いた。
四人は祭壇の上に浮遊する水晶へと視線を移した。
それは、彼らがこの遺跡に足を踏み入れた最大の目的であり、霊体の騎士が命を賭して守り抜こうとした古代のアーティファクトである。
「この魔力の密度……やはり間違いないわ」
セリアが水晶にそっと手をかざし、その波動を読み取る。
「これは『星脈の核』。大地を流れる魔力の奔流を凝縮し、半永久的に純度の高いエネルギーを放出し続ける古代の魔力炉よ。人間の王都を丸ごと一つ、数百年は維持できるほどの力があるわ」
「人間の王都だと? 冗談じゃねえ、そんなもんのために使ってたまるか」
バルガンが目を輝かせ、残された右腕で水晶の表面を愛おしそうに撫でた。
「これほどの純粋なエネルギー源があれば、俺の移動要塞はさらに進化する。ワームの魔石だけじゃ足りなかった防御結界の展開や、新しい武装の組み込みだって可能になるぞ。お前ら、こいつは俺の工房で最大限に活かさせてもらうぜ」
「ああ、好きにしろ。俺たちには到底扱いきれない代物だ」
ヴァンがアーティファクトを布で包み込み、バルガンに手渡した。
鋼殻の移動要塞へと帰還した四人は、すぐさまそれぞれの役割に取り掛かった。
バルガンはアーティファクトを要塞の動力部へと接続するための設計図を引き始め、セリアはヴァンの横に付き添って継続的な魔力回路の修復に努めている。
そしてバクスは、要塞内の調理スペースで、神殿から汲み上げてきた霊水を鍋に満たし、腕まくりをして火の前に立った。
「よし、今日は俺の料理人としての集大成を見せてやる」
バクスは氷河の猪の雪のように白い脂身、ロック・ワームの大地の蜜腺、烈風の怪鳥の骨など、これまでの魔境の旅で手に入れてきた極上の素材を次々と取り出した。
それらを霊水でじっくりと煮込み、彼が荒野で独自に調合した数種類の薬草と香辛料を加えていく。
鍋の中で素材の旨味と魔力が溶け合い、霊水の浄化作用によって一切の毒素や雑味が消え去っていく。やがて車内には、深淵の悪魔の瘴気すらも浄化してしまうような、優しく、そして力強い命の香りが充満し始めた。
「さあ、出来たぜ。魔境の恵みをすべて詰め込んだ、バクス特製『万象の霊薬スープ』だ」
バクスが湯気を立てる大きな木の器を、ヴァンの前にそっと置いた。
黄金色に透き通ったスープの表面には、猪の脂がキラキラと輝いている。
ヴァンは木のスプーンを手に取り、ゆっくりとスープを口に運んだ。
その瞬間、ヴァンの見開かれた瞳から、驚きの光が漏れた。
熱い。しかしそれは、火傷をするような物理的な熱ではない。命そのものが燃え上がるような、圧倒的な活力の塊だった。スープが喉を通り、胃に落ちた途端、深淵の悪魔の力によって焼け焦げ、限界を迎えていた全身の細胞と魔力回路が、凄まじい速度で再生を始めたのだ。
「美味い……。大地の力と、風の清涼感が同時に体を駆け巡っていく。傷ついた場所が、内側から縫い合わされていくようだ」
ヴァンが静かに、しかし確かな感動を込めて呟くと、バクスは鼻高々に笑った。
「だろ。霊水がすべての食材の魔力を完璧に調和させてるんだ。お前のその『虚無の器』ってやつは、どんな呪われた魂でも受け入れる代わりに、ダメージも全部溜め込んじまう。だからこそ、俺の飯で限界まで器を広げて、強くしてやる必要があるんだよ」
セリアも自分の分のスープを一口飲み、その劇的な回復効果に感嘆の吐息を漏らした。
「本当に素晴らしいわ、バクス。私の治癒魔法では届かない魂の領域まで、このスープの魔力が浸透していくのが分かる。……ありがとう。あなたがいてくれなければ、ヴァンは戦いのたびに命を削り落としていたわ」
「へへっ、水臭いこと言うなよ。俺たちは仲間だろ」
バクスが照れくさそうに尻尾を振る。
バルガンも設計図から顔を上げ、スープを勢いよく飲み干した。
「ああ、全くだ。こんな馬鹿げた美味い飯を食わされちゃ、俺も要塞の改造に手を抜くわけにはいかねえな。明日の朝には、あの水晶を動力に組み込んで、この馬車を正真正銘の『無敵の城』にしてやるよ」
ヴァンは空になった器を置き、静かに車内を見渡した。
窓の外には、魔境の深い夜の闇が広がっている。しかし、分厚い装甲に守られたこの空間の中は、明るい魔石の光と、仲間たちの温かな笑い声に満ちていた。
最強の戦士、異端の召喚師、迫害された料理人、そして隻腕の建築家。
古代遺跡での死闘を乗り越え、莫大な魔力源という新たな力を手に入れた彼らの絆は、どんな鋼鉄よりも強固なものへと鍛え上げられていた。
「少し休む。バルガン、見張りは任せていいか」
ヴァンがいつになく穏やかな声で言うと、隻腕のドワーフは力強く頷いた。
「おう、任せておけ。俺の設計した防衛結界が、虫一匹たりとも近づけさせねえよ。お前は泥のようになるまでぐっすり眠りな」
その言葉を背に受けながら、ヴァンは心地よい疲労感に包まれて目を閉じた。
次なる未知の領域への期待を胸に、鋼殻の移動要塞は静かな夜の森で休息の時を刻んでいくのだった。




