第54話 泥虫の恩恵と動き出す歯車
激しい地鳴りと岩盤が砕ける轟音がやみ、廃鉱山には再び深い静寂が戻っていた。
ヴァンの足元から坑道の奥深くに向かって、無残に両断されたロック・ワームの巨大な死骸が文字通り山のように積み重なっている。緑色の粘液と、土の魔力が入り混じった独特の匂いが空間を満たしていた。
ヴァンは左腕の幻影の盾を霧散させ、静かに同化を解除した。
極限まで圧縮されていた筋肉が元の状態に戻り、彼の口から白く細い呼気が吐き出される。
その横顔には、死闘を終えた直後特有の高揚感も、疲労の色も浮かんでいない。ただ日常の作業を終えたかのような、静かで淡々とした佇まいがあった。
「本当に、全部斬り捨てやがった……」
隻腕のドワーフ、バルガンは、自分が仕掛けた即席の土砂崩れの壁と、その手前に築かれた死骸の山を交互に見比べ、呆然と呟いた。
彼が意図的に坑道を崩落させ、敵の侵入経路を一つに絞ったとはいえ、体長十メートルの巨大なミミズが数十匹も押し寄せてきたのだ。並の戦士であれば、その質量と恐怖の前に押し潰されて終わりである。それを、魔力を持たないただの人間が、巨大な盾と剣だけで一歩も退かずに凌ぎ切った。
「おっさん、ぼーっとしてる暇はないぜ。鮮度が落ちる前に、さっさと解体しねえとな」
バクスが愛用の巨大な包丁とノコギリを取り出し、鼻歌交じりに死骸の山へと登っていく。
「おい、獣人。まさかあんな泥虫を食うつもりか。あいつらは土と岩しか食ってねえぞ。肉なんて泥臭くてとても食えたもんじゃねえ」
バルガンが顔をしかめて言うと、バクスは振り返って犬歯を剥き出しにして笑った。
「素人はそう言うだろうな。確かに外側の筋肉は泥臭くて硬いだけのゴミだ。だがな、こいつらの頭の奥には、噛み砕いた岩石を溶かすための『大地の蜜腺』って呼ばれる特殊な内臓があるんだよ」
バクスは手際よくロック・ワームの頭部を切り開き、中から琥珀色に輝くゼリー状の巨大な塊を取り出した。
「岩のミネラルと土の魔力が極限まで濃縮された、超高級食材さ。こいつをさっきの猪のスープに溶かし込めば、冷えた体を芯から燃やす極上の強壮剤になる。あんたの失った左腕の幻肢痛だって、一発で吹き飛ぶぜ」
バクスが言う通り、大地の蜜腺を加えられたスープは、先ほどよりもさらに暴力的なほど濃厚で甘美な香りを放ち始めた。
再び木の器を手渡されたバルガンは、無言でそれを口に運んだ。
とろみのあるスープが喉を通った瞬間、バルガンの全身の毛穴がカッと開いた。土の魔力が血液に乗って全身を駆け巡り、長年彼を苦しめていた失われた左腕の疼きが、嘘のように引いていく。それどころか、何年も地下で腐らせていた彼のドワーフとしての筋肉が、内側から熱を帯びて激しく脈打ち始めていた。
美味い。悔しいが、文句のつけようがないほどにな。
バルガンは空になった器を置き、深く息を吐き出した。
そして、焚き火の向こうで静かに斬馬刀の刃こぼれを確認しているヴァンと、その傍らで魔力の残滓を整えているセリアを見つめた。
魔法を使えない規格外の戦士。
社会から異端とされた古代召喚術の使い手。
そして、迫害されて夢を絶たれた獣人の料理人。
彼らは皆、自分と同じように世界から不要とされ、弾き出された者たちだった。しかし、彼らの瞳には、バルガンが長年抱え込んでいたような暗い絶望や人間不信の色はない。彼らは互いの力を完全に信頼し、この過酷な魔境を自分たちの足で力強く歩み続けている。
バルガンは、自分の右手をじっと見つめた。
手先が器用すぎるがゆえに奴隷のように扱われ、同胞に裏切られ、全てを捨てて逃げ込んだこの地下の工房。彼はここで、ただ息を潜めて静かに死を待つはずだった。
しかし、彼らの戦いを見て、彼らの食事を味わった今、バルガンの胸の奥で、長年凍りついていた職人としての魂が、制御不能なほどの熱を放って燃え上がり始めていた。
「おい、戦士。いや、ヴァンと言ったか」
バルガンが立ち上がり、ヴァンの前に歩み寄った。
「お前たちのその戦い方、そしてそのふざけた野営の装備。この先、さらに険しい魔境の奥へ進むつもりなら、いずれ限界が来るぞ。特にその氷殻の白猿の毛皮で作っただけの寝袋。あんなものでは、雨季の湿気と毒虫は防げねえ」
ヴァンの瞳が、静かにバルガンを捉える。
「俺は、伝説の建築家などと呼ばれるのは反吐が出るほど嫌いだ。だがな……」
バルガンは作業場から丸まった古い羊皮紙を無造作に引っ張り出し、焚き火の明かりの前に広げた。
そこに描かれていたのは、複雑な歯車と軽量化された強固な骨組みを持つ、見たこともない形状の組み立て式テント、あるいは移動式の馬車の設計図だった。
「俺の技術は、誰かに鎖で繋がれて兵器を造るためのもんじゃねえ。俺が造りたいものを、俺の意志で造るためのもんだ。お前らがこの先もその馬鹿げた旅を続けるって言うなら、俺がお前らのための最強の『拠点』を造ってやる」
バルガンのしゃがれた声には、かつての刺々しい絶望は消え去り、職人としての確かな誇りと熱意が宿っていた。
「このロック・ワームの装甲殻は、軽くて鋼鉄よりも硬い最高の建材になる。俺の腕とこいつらの素材があれば、どんな悪天候も魔物の奇襲も防ぎ切る、完璧な移動拠点を用意できる」
バルガンはヴァンを見据え、真っ直ぐに言った。
「どうだ。俺を、お前らの旅に連れて行け」
ヴァンは広げられた精緻な設計図と、バルガンの瞳の奥に燃える光を静かに見つめ返した。
そして、一切の迷いなく頷いた。
「歓迎する。お前のその技術、俺たちの旅には不可欠だ」
「……ふん。言っておくが、俺は戦闘には一切参加しねえし、口も悪いぞ。期待しすぎるなよ」
バルガンが照れ隠しのように鼻を鳴らすと、横からバクスが嬉しそうに彼の背中をバンバンと叩いた。
「やったな、おっさん! これで飯を食う相手が一人増えたぜ。俺が毎日、最高の料理を食わせてやるから、しっかり働いてくれよな!」
「痛えな! 気安く叩くんじゃねえ、この駄犬が!」
バルガンが憎まれ口を叩きながらも、その顔には久方ぶりの小さな笑みが浮かんでいた。
セリアもその様子を見て、静かに微笑みをこぼす。
世界から不要とされた者たちの旅。
冷たく暗い廃鉱山で出会った隻腕のドワーフを新たな仲間に加え、彼らの歩みは、さらに強固で確かなものへと変わろうとしていた。




