第53話 鉄壁の盾騎士と即席の防壁
ズズズズズッ、という不気味な地鳴りが、冷たい坑道全体を激しく揺さぶる。
岩壁が内側から弾け飛び、土煙とともに無数の巨大な影がバルガンの作業場へと雪崩れ込んできた。
体長十メートル、太さは大木ほどもある巨大な環形動物。岩喰い虫、ロック・ワームの群れである。頭部には目も鼻もなく、ただ分厚い岩盤を噛み砕くための幾重にも連なる強靭な牙の渦だけが開いていた。
「くそっ、やっぱり来やがった! あの極上のスープの匂いと熱に、地下の底から群れごと引き寄せられやがったんだ!」
隻腕のドワーフ、バルガンが血相を変えて叫び、右手の連射弩を乱射する。
しかし、放たれた鋼鉄の矢はワームの分厚い粘液と強固な皮膚に弾かれ、致命傷には程遠い。
「お前ら、さっさと逃げろ! 俺の罠じゃこいつらの突進は止められねえ。せめて俺が囮になる間に……」
人間不信に陥り、孤独に死を待つだけだったはずのバルガンが、自らの命を投げ打ってでも彼らを逃がそうとした。それは、彼がバクスの作った温かいスープを飲み、久しく忘れていた他者の温もりと職人の熱意を直感的に感じ取ってしまったからに他ならない。
だが、彼の前に立ち塞がった巨漢の戦士は、逃げるどころか一歩前に踏み出した。
「下がるんだ、バルガン。お前が囮になる必要はない」
ヴァンは漆黒の斬馬刀を抜き放ち、静かに、しかし絶対的な自信を込めて言った。
「俺たちは、仲間が作った飯を食い残して逃げるような真似は絶対にしない」
その後ろで、セリアが坑道の冷たい空気の中で両手を広げ、凛とした声で詠唱を紡ぎ始めていた。
「西方神話において、ただ一人で巨大な竜の群れから城塞都市を守り抜いたとされる鉄壁の守護者。大地の精霊の加護を受け、自らの肉体を城壁と化す不抜の盾騎士よ。その絶対防壁の記憶を、今この器に宿したまえ」
虚空に、重厚な鉛色と大地の茶色が混じり合った巨大な魔法陣が展開される。
そこから現れたのは、全身を分厚く巨大な鋼鉄の重甲冑で包み、身の丈を越える巨大なタワーシールドを構えた盾騎士の幻影だった。幻影は、一切の揺るぎない足取りでヴァンの巨体へと真っ直ぐに歩み寄り、同化した。
「同化召喚・鉄壁の盾騎士」
ズンッ、とヴァンの足元の石畳が、急激に増加した質量に耐えきれずに放射状にひび割れた。
ヴァンの肉体に劇的な変化が起きる。筋肉が極限まで圧縮されて鋼のような硬度を持ち、彼の左腕からは鉛色の魔力が溢れ出し、それが実体を持った巨大な「幻影の盾」となって顕現したのだ。
狂戦士や修羅王の時のような、暴れる闘気や神速の動きはない。
そこにあるのは、どれほどの質量がぶつかろうとも決して退かない、圧倒的で絶対的な「静」の防御力だった。
「ギシャァァァァッ!」
先頭のロック・ワームが、強靭な牙の渦を開いてヴァンに向かって突進してくる。その質量と速度は、まさに走る攻城兵器そのものである。
ヴァンは回避行動を一切とらない。
彼は左腕の幻影の盾を前方に突き出し、腰を深く落として迎撃の姿勢をとった。盾騎士の記憶が導き出す、完璧な重心移動と防御の型。そして、いかなる激痛や肉体の過負荷にも耐えうるヴァンの虚無の器が、その防御力を限界まで引き上げる。
ドゴォォォォォンッ。
坑道が崩落するかのような轟音が響き渡った。
ロック・ワームの巨大な頭部がヴァンの盾に激突したが、ヴァンの巨体は一歩たりとも後退しなかった。分厚い岩盤を食い破るワームの牙が幻影の盾を削ろうと火花を散らすが、大地の精霊の加護を受けた絶対防壁は傷一つついていない。
「なっ……なんだあの防御力は。体長十メートルの岩喰い虫の突進を、正面から完全に受け止めやがった」
後方で見ていたバルガンが、信じられないものを見るように目を剥く。
「……硬いだけが盾騎士の仕事じゃない」
ヴァンは突進の衝撃を完全に殺しきると、盾越しに漆黒の斬馬刀を水平に薙ぎ払った。
盾騎士の重い一撃と、ヴァンの膂力が合わさった刃が、ワームの無防備な胴体を深々と両断する。緑色の粘液が吹き出し、巨大な虫が絶命して崩れ落ちた。
だが、敵は一匹ではない。
仲間の死骸を乗り越え、さらに十数匹のロック・ワームがうねりを上げて押し寄せてくる。さらに厄介なことに、数匹のワームが天井や側面の岩壁に穴を開け、ヴァンの盾を迂回して後方のセリアやバクス、そしてバルガンを直接狙おうと動き始めたのだ。
「マズい。全方位から来られたら、いくらあの戦士でも守りきれねえぞ」
バルガンが叫ぶ。
しかし、その時、バルガンの中の建築家としての魂が、彼自身の恐怖を上回る熱を帯び始めた。
目の前で、常識外れの力で戦う戦士と召喚師がいる。自分たちを守るために、決して退かずに前線を支えている。そして何より、腹の底から湧き上がる、あの温かいスープがもたらした強烈な活力が、失われていた彼の職人としての闘争心に火をつけたのだ。
「舐めるなよ、泥虫ども。ここは俺の工房だ」
バルガンは右手一本で、作業場に散らばっていた巨大な歯車と鋼鉄の支柱を素早く拾い上げた。
彼の頭脳の中で、即席の防衛機構の設計図が一瞬にして組み上がる。
「戦士。そのまま正面の敵を抑えろ。側面と天井の穴は、俺が塞ぐ」
バルガンの声に、ヴァンは短く「頼む」とだけ返し、前方の敵の迎撃に集中する。
バルガンは坑道に張り巡らされていた自分の罠のワイヤーを強引に引きちぎり、それを歯車と滑車に巻きつけると、作業場の支柱の根元に使い残りの爆薬を仕掛けた。
「落ちろォッ!」
彼が右手で起爆装置を押し込むと、ドカンという短い爆発音とともに、坑道の側面と天井の一部が意図的に崩落した。バルガンの計算し尽くされた崩落は、セリアやバクスには一切の被害を与えず、側面から迫っていたロック・ワームたちの進行ルートだけを完璧に土砂で埋め尽くしたのだ。
これで、敵の侵入経路はヴァンの正面ただ一つに絞られた。
完璧なキルゾーンの形成。それは、最強の盾と、伝説の建築家の空間把握能力が奇跡的に噛み合った瞬間だった。
「見事だ、バルガン」
ヴァンが短く称賛の言葉を口にする。
侵入経路が一つになったことで、もはやヴァンに死角はなくなった。
「セリア、バクス。晩飯の邪魔をする害虫は、これで全て駆除する」
ヴァンは幻影の盾を構えたまま、迫り来るワームの群れに向かって、自ら前進を開始した。
盾騎士の防御力に、ヴァンの常軌を逸した膂力による圧倒的な押し込み。
岩盤すら砕くワームの突進を盾で完全に受け止め、弾き返し、体勢を崩したところを斬馬刀で両断する。坑道という狭い空間において、正面から一切の突破を許さないヴァンの戦い方は、まさに移動する要塞そのものだった。
数十匹いたロック・ワームの群れは、ただの一匹もヴァンの背後へ通り抜けることなく、次々と漆黒の刃の前に散っていった。
やがて、坑道に再び静寂が戻った。
足の踏み場もないほどに転がる巨大な虫の死骸の山。その中心で、ヴァンは幻影の盾を霧散させ、静かに同化を解除した。
バクスの料理による超回復がすでに働き始めており、彼の息はほとんど乱れていなかった。
「……信じられねえ」
バルガンは、自分の足元に転がる死骸の山と、無傷で立つ巨漢の戦士を見比べ、呆然と呟いた。
人間も亜人も信用せず、孤独に死を待つだけだった自分の工房が、彼らの力と自分の技術によって完璧に守り抜かれたのだ。
「助かったぜ、おっさん。あんたの壁落としがなきゃ、俺のスープは泥虫どもの腹の中だった」
バクスがニカッと笑いながら、魔石コンロの火を止めた。
「俺たちの力だけでは、全てを護り切ることはできなかった。お前の建築家としての腕が、この結果を作ったんだ」
ヴァンが斬馬刀を鞘に収め、バルガンに向かって静かに言った。
その言葉に、バルガンの胸の奥で、長年凍りついていた何かが熱く溶け出していくのを感じた。
利用されるためではない。誰かを護り、共に戦うために振るった自分の技術。
「……チッ。勝手なことばかり言いやがって」
バルガンは顔を背け、失われた左腕の肩をさすった。しかし、そのしゃがれた声には、先ほどまでの刺々しい絶望は消え去り、かつての伝説の建築家としての静かな誇りが蘇り始めていた。
冷たく澱んでいた廃鉱山に、確かな温もりと新たな絆が芽生えた夜だった。




