第52話 隻腕の設計者と地下の晩餐
冷たい坑道の中に、一触即発の空気が張り詰めていた。
隻腕のドワーフ、バルガンの右腕が構える機械式の連射弩。その切先は正確にヴァンの眉間を捉えており、引き金にかけられた指には明確な殺意が込められている。
しかし、ヴァンは漆黒の斬馬刀を背中の鞘にゆっくりと収めた。
彼の無駄のない動きには一切の敵意が含まれておらず、バルガンは逆に目をすがめて警戒を強めた。
何の真似だ。命乞いなら他所でやれ。俺は人間も亜人も信用しねえ。
バルガンのしゃがれた声に対し、ヴァンは淡々と答える。
命乞いをするつもりもないし、お前を脅して何かを奪うつもりもない。俺たちはただ、風と冷気を凌げる今日の野営地を探していただけだ。お前がここを縄張りにしているというなら、入り口付近を借りるだけでいい。
ヴァンの言葉に嘘偽りがないことは、その底知れぬ虚無を湛えた瞳が証明していた。
社会から不要とされ、底辺の泥水をすすってきた者特有の、世界の理不尽を全て受け入れた上でなお折れない強靭な瞳。バルガンはその目を見て、一瞬だけ引き金の指の力を緩めた。
その隙を見逃さず、セリアが静かに一歩前に出る。
バルガンと名乗ったわね。その精巧な連射弩、そしてこの坑道に張り巡らされた魔力を使わない物理的な防衛機構。……もしかしてあなたは、東の王都の『難攻不落の城壁』を設計したとされる、伝説の建築家バルガンじゃないかしら。
セリアの言葉に、バルガンは自嘲気味に鼻を鳴らし、連射弩の銃口を床へと向けた。
伝説、だぁ? 笑わせるな。ただの便利な奴隷だっただけだ。
バルガンは坑道の奥にある、自身の作業場らしき空間へと歩き出しながら吐き捨てるように言った。
ヴァンたちも一定の距離を保ちながらその後を追う。
作業場には、無数の歯車やバネ、そして石材の破片が散乱していた。魔力を使わずとも強固な要塞を造り上げる彼の技術は、召喚術至上主義のこの世界においてすら、一部の権力者たちにとっては喉から手が出るほど欲しいものだったのだ。
俺の手先が器用すぎたのが間違いだった。人間どもは俺を地下の工房に鎖で繋ぎ、死ぬまで兵器と城壁を造らせようとした。そして同じドワーフの同胞どもは、俺の才能に嫉妬し、俺を人間に売り飛ばしたのさ。
バルガンは失われた左腕の付け根を右手で乱暴に掻きむしった。
だから俺は、繋がれていた左腕を自分で切り落として逃げ出した。誰も俺を利用できない、人間も同胞もいないこの魔境の奥深くまでな。お前らもさっさと出て行け。俺はもう、誰の役にも立つつもりはねえ。
バルガンの過去の壮絶な告白。
それは、召喚術という万能の力の影で、才能を搾取され、捨てられた者の末路だった。
勇者パーティーから雑用係として酷使され、囮として捨てられたヴァン。
異端の術として地下教会に幽閉されていたセリア。
獣人というだけで厨房から追い出されたバクス。
この場にいる全員が、世界から不要とされ、理不尽な暴力を受けてきた者たちだった。
……ヴァン。このおっさん、随分と長くまともな飯を食ってない匂いがするぜ。
張り詰めた空気を破ったのは、獣人のバクスだった。
彼はバルガンの威嚇など全く気にしていない様子で、背中の大きな荷袋を下ろし、坑道の一角で手際よく野営の準備を始め出したのだ。
おい、勝手に何をしている。さっさと出て行けと言ったはずだ。
バルガンが怒鳴るが、バクスは振り返らずに携帯用の魔石コンロに火を点けた。
こんな石の冷気が溜まる地下で、苔やネズミばかり食ってたら、残った右腕まで動かなくなるぞ。俺たちはここを動かない。あんたは俺たちを無視してくれて構わないが、飯の匂いだけは我慢してくれよな。
バクスはそう言うと、昨日仕留めた氷河の猪の残りの肉と、烈風の怪鳥の骨を煮込んだ特製のスープを作り始めた。
猪の純白の脂が熱で溶け出し、怪鳥の骨から滲み出た旨味と混ざり合う。バクスが荒野で採取した香辛料をふりかけると、冷たく澱んでいた坑道の空気が、一瞬にして暴力的なほど芳醇な香りに支配された。
グゥゥゥゥッ。
坑道に響き渡ったのは、バルガンの腹の虫の音だった。
彼は慌てて腹を押さえたが、数年間まともな食事をとっていなかったドワーフの肉体は、本能レベルでバクスの料理の匂いに降伏していた。
ほらよ、おっさん。頑固なのもいいが、腹が減っては憎しみも湧かないだろ。
バクスが木の器に熱々のスープと分厚い猪肉をよそい、バルガンの足元に置いた。
バルガンはプライドと空腹の間で葛藤していたが、やがて震える右手で器を持ち上げ、スープを一口すすった。
……ッ!?
バルガンの目が見開かれる。
ただの美味いスープではない。氷河の猪の脂がもたらす熱が、失われた左腕の幻肢痛を和らげ、冷え切っていた細胞の隅々にまで強烈な活力を与えていく。怪鳥の魔力が、長年の疲労を内側から洗い流していく。
魔物の肉という一般的には毒とされる素材を、これほどまでに完璧な霊薬へと昇華させる技術。バルガンは建築家としての直感で、目の前の獣人がただの料理人ではなく、自分と同じ狂気的なまでの職人であることを理解した。
お前ら……一体何者なんだ。
バルガンが呆然と呟いた、その時だった。
ズズズズズズッ。
突如として、廃鉱山の床と壁が激しく揺れ始めた。
単なる地震ではない。地下のさらに深い場所から、無数の巨大な何かが岩盤を削りながら急速に接近してくるような、不気味な地鳴り。
マズい……! 飯の匂いに釣られて、地下の悪魔どもが目を覚ましやがった!
バルガンが血相を変えて立ち上がり、右手の連射弩を構え直した。
地下の悪魔?
ヴァンが静かに問う。
岩喰い虫、ロック・ワームの群れだ。鋼鉄よりも硬い顎で岩盤を食い破る、体長十メートルを超える巨大なミミズの化け物どもだ。夜になると活動を始め、生き物の体温と匂いに群がってくる。俺の仕掛けた罠じゃ、あの巨大な質量は止められないぞ!
バルガンが絶望的な声を上げる中、坑道の奥の岩壁が轟音とともに崩れ落ち、そこから無数の巨大な環形動物の化け物が、不気味な粘液を撒き散らしながら姿を現した。
セリア。バクスの飯と荷物を守るぞ。
ヴァンの声には、一切の恐怖も焦りもなかった。
彼は再び漆黒の斬馬刀を引き抜き、バクスとバルガンの前に立ち塞がった。
ええ。あんな泥臭い虫けらどもに、バクスの料理を踏みにじらせはしないわ。
セリアが深い青の外套を翻し、暗い坑道の中で両手を広げた。
迫り来る無数の地底の魔物たちを前に、異端の術者と最強の戦士による、岩盤すらも凌駕する防衛戦が今、始まろうとしていた。




