第51話 岩山の隠者と拒絶の弩
雪解け水が流れる豊かな森を抜け、谷のさらに奥深くへと歩みを進めるにつれて、周囲の景色は再びその相貌を大きく変え始めていた。
見上げるほど巨大だった古代樹の数は次第に減り、代わりに赤茶けた無骨な岩肌が剥き出しになった荒涼とした岩山地帯が視界を覆っていく。風の音は岩の隙間を抜けてヒューヒューと不気味な唸り声を上げ、空気には乾いた土と微かな鉄の匂いが混じり始めていた。
「この辺りから、土と鉱物の魔力が異常に濃くなっているわね」
深い青の外套を羽織ったセリアが、周囲の岩壁を観察しながら静かに呟いた。
「人間の国の地図はおろか、古い伝承にすら記されていない未知の領域よ。どんな強力な魔物が潜んでいてもおかしくないわ」
「ああ。だが、それ以上に厄介なのは足場だな」
ヴァンは背中の漆黒の斬馬刀が岩にぶつからないよう気を配りながら、険しい岩場の獣道を慎重に登っていく。
魔境の第三層とも呼ぶべきこの岩山地帯は、迷路のように入り組んだ渓谷と切り立った崖で構成されていた。少しでも足を踏み外せば、底の見えない暗い谷底へと真っ逆さまである。
「ヴァン、セリア。ちょっと待ってくれ」
先頭を歩いていた獣人のバクスが、不意に立ち止まって鼻をヒクヒクと動かした。彼の背負う大きな荷袋からは、昨晩の宴で残った香ばしい鳥肉の匂いが微かに漂っているが、彼が嗅ぎ取ったのはそれとは全く別のものだった。
「魔物の気配じゃない。古い油と……鉄を打った匂いだ。それから、ひどく古びた血と汗の匂いも混ざってる。この先の岩山の裏側に、何か人工的なものがあるぞ」
バクスの鋭い嗅覚を頼りに、三人は巨大な岩の裂け目を回り込んだ。
そこには、自然の造形とは明らかに異なる、巨大な建造物の入り口が存在していた。
高さ十メートルはあろうかという巨大な坑道の入り口。周囲の岩壁は精緻な石組みで補強されており、長い年月風雨に晒されて風化しているものの、その幾何学的な美しさと圧倒的な堅牢さは一目で尋常なものではないと分かる。
「これは……ドワーフの建築様式ね」
セリアが坑道の入り口に触れ、その完璧な石の繋ぎ目に感嘆の吐息を漏らした。
「しかも、ただの採掘場じゃないわ。要塞としての機能も兼ね備えた、大規模な地下居住区の跡よ」
ドワーフ。
それは、生まれながらにして大地の魔力を操り、自らの手で高度な武具や建築物を造り出すことを得意とする亜人種である。しかし、召喚術が絶対的な力を持つ現在の世界において、彼らの存在はヴァンたち戦士と同じように時代遅れの無能として冷遇されていた。
強力な魔神や天使を召喚すれば、武器を振るう必要も、強固な城壁を築く必要もない。召喚術という万能の力の前に、ドワーフたちの泥臭い手作業は不要とされ、彼らは人間の国から迫害され、辺境へと追いやられていったのだ。
「迫害から逃れたドワーフたちが、この魔境の奥深くに自分たちの居場所を築こうとした跡というわけか」
ヴァンは静かに坑道の奥の暗闇を見据えた。
「日が暮れる前に、今日の野営地を見つけたかったところだ。中に入ってみよう」
坑道の中は、外の乾いた風が遮断され、ひんやりとした静寂に包まれていた。
入り口付近こそ風化が進んでいたが、奥へ進むにつれて、石畳の床や壁面の補強は驚くほど綺麗な状態を保っていた。まるで、ごく最近まで誰かが手入れをしていたかのように、チリ一つ落ちていない場所すらある。
その不自然なまでの静寂と清潔さに、ヴァンの研ぎ澄まされた観察眼がいち早く警鐘を鳴らした。
「……止まれ」
ヴァンの低い声に、セリアとバクスがピタリと足を止める。
「どうした、ヴァン? 何か魔物の気配でも……」
バクスが言いかけたその瞬間。ヴァンの足元にあった石畳の一枚が、カチリと微かな音を立てて数ミリ沈み込んだ。
直後、坑道の左右の壁面に偽装されていた無数の小さな穴が開き、そこから鋼鉄の矢が雨あられのように射出されたのだ。
致死性の罠。しかも、魔法ではなく純粋な機械仕掛けによる、魔力探知を完全にすり抜ける物理的な迎撃システムである。
「チッ!」
ヴァンは同化召喚を頼る暇すら与えられなかった。
彼は常人離れした反射神経で背中の斬馬刀を引き抜くと、その分厚く巨大な刀身を盾のように自らの前方に構えた。
ガギンッ、ガガガガガッ。
甲高い金属音が暗い坑道に響き渡る。斬馬刀の圧倒的な質量と強固な魔法反射甲殻が、バクスとセリアに向かっていた矢の軌道を全て弾き飛ばし、足元の石畳に無数の鉄矢が散らばった。
「あっぶねえ……! 魔力がない罠なんて、俺の鼻でも気付けなかったぜ!」
バクスが腰を抜かしそうになりながら叫ぶ。
ヴァンはゆっくりと斬馬刀を下ろし、矢が飛んできた奥の暗闇に向かって鋭い視線を向けた。
「随分と手の込んだ歓迎だな。俺の勘が正しければ、この罠の手入れをしたのはつい最近だ」
ヴァンの声が坑道に響くと、暗闇の奥から、低くしゃがれた舌打ちの音が返ってきた。
「チッ。せっかく数ミリ単位で調整した防衛機構を、力任せに弾きやがって。どこの野蛮な魔物かと思えば、魔法も使えねえ図体ばかりの戦士と、ひ弱な女、それに獣人の料理人だと?」
コツ、コツ、という重い足音とともに、暗闇の中から一人の男が姿を現した。
背丈はヴァンの半分ほどしかない小柄な体格。しかし、その肩幅は岩のように広く、筋肉の鎧を纏っているのが衣服の上からでも分かる。顔の半分を覆う灰色の髭と、鋭く人間を射抜くような眼光。
間違いなくドワーフの男だった。
しかし、ヴァンの目を最も惹きつけたのは、その男の左腕だった。
肩の付け根から先が、すっぽりと失われているのだ。隻腕のドワーフ。
男は残された右腕一本で、複雑な歯車と滑車が組み合わされた異様な形状の機械式連射弩を構え、その照準を正確にヴァンの眉間へと定めていた。
「俺はバルガンだ。悪いが、人間のお客様をもてなす茶は用意してねえ」
男の声には、長い年月をかけて蓄積された、深く暗い憎悪と人間不信がこびりついていた。
「さっさと出て行け。ここは俺の静かな墓場だ。人間も、それに尻尾を振ってついて回る亜人も、俺の視界に入るな」
バルガンの右腕の筋肉が隆起し、連射弩の引き金にかけられた指に力が込められる。一触即発の空気が、冷たい坑道の中を支配した。
だが、ヴァンは斬馬刀を構え直すこともなく、ただ静かに隻腕のドワーフを見下ろしていた。
社会から不要とされ、裏切られ、迫害されてきた者の瞳。それはかつて、勇者パーティーから理不尽な追放を受けた直後にヴァン自身が宿していた、底知れぬ虚無と孤独の色と全く同じだったからだ。




