第47話 天翔ける神馬と極上の風刃肉
セリアの高く澄んだ声が、崖に吹き荒れる暴風を切り裂いて響き渡る。
「西方神話の空を統べし純白の神馬。重力の鎖を断ち切り、天の頂を駆ける有翼の幻獣ペガサスよ。その不可侵なる白翼と飛翔の記憶を、今この器に宿したまえ」
虚空に、眩いほどに純白の光を放つ巨大な魔法陣が展開された。
光の粒子が舞い散る中、魔法陣から姿を現したのは、神々しいまでの美しさを誇る白馬の幻影だった。その背には巨大な鳥の翼が生えており、嘶きとともに周囲の暴風を完全に凪へと変えていく。
幻影は空を駆け下り、崖際に立つヴァンの巨体へと真っ直ぐに飛び込み、同化した。
「同化召喚・有翼の神馬」
ドクン、とヴァンの肉体が大きく脈打つ。
直後、ヴァンの背中から純白の魔力の奔流が噴き出し、それが実体を持った巨大な光の翼となって顕現した。
狂戦士の暴力的な力や、剣闘士の神速とは全く異なる感覚。それは重力からの完全な解放だった。ヴァンのずっしりとした巨体から重量という概念が消え失せ、複雑な風の流れが手に取るように理解できる。
後方で岩陰に身を伏せていたバクスが、信じられないものを見るように目を丸くした。
「嘘だろ……。あんなデカい大剣を背負った大男に、天使みたいな光の羽が生えやがった……」
「行くぞ」
ヴァンは短く呟き、崖の縁を軽く蹴った。
それだけで、彼の身体は弾丸のように空へと跳ね上がった。背中の光の翼が一度羽ばたくと、空気を掴む確かな手応えとともに、ヴァンの巨体は完全に重力を振り切って天空へと舞い上がった。
上空を旋回していた烈風の怪鳥たちが、自分たちの絶対的な領域に侵入してきた人間を見て、驚愕と怒りの混じった甲高い鳴き声を上げた。
数匹の怪鳥が一斉に羽ばたき、先ほどよりもさらに巨大で鋭い不可視の風刃を無数に放ってくる。
しかし、空を得たヴァンに死角はなかった。
ペガサスの魂は、ヴァンに空を駆けるための完璧な三次元機動の記憶を与えている。ヴァンは空中で光の翼を器用に操り、迫り来る風刃の嵐を紙一重で躱していく。風の軌道を読み切り、上昇と急降下を繰り返すその姿は、およそ人間の枠を完全に逸脱していた。
「バクスの注文は胸肉だったな。ならば、そこ以外を斬る」
ヴァンは上空で鋭く反転し、一匹の怪鳥の背後へと回り込んだ。
空中で漆黒の斬馬刀を上段に構える。足場のない空中で巨大な剣を振るえば、通常であれば反動で自身の姿勢が崩れてしまう。しかし、光の翼が空気を完璧に捉え、空中に見えない強固な足場を作り出していた。
「シッ」
鋭い呼気とともに振り下ろされた斬馬刀が、怪鳥の首の付け根を正確に両断した。
胸肉には一切の傷をつけず、絶命した怪鳥の巨体が重力に従って落下していく。
ギャァァァァッ。
仲間の死に激昂した残りの怪鳥たちが、四方八方から鋭い嘴と鉤爪を向けてヴァンに突撃してくる。
ヴァンは空中にとどまったまま、光の翼を大きく羽ばたかせた。ペガサスの魔力が突風を生み出し、怪鳥たちの姿勢を一瞬崩す。その隙を見逃さず、ヴァンは神速の機動で怪鳥たちの間をすり抜けながら、漆黒の刃を一閃、また一閃と振るっていった。
黒い鋼と白い光の翼が、青空を背景に恐るべき死の舞踏を繰り広げる。
わずか数分の間に、群れを成していた烈風の怪鳥たちは一匹残らず首や翼を両断され、崖下の岩棚へと次々に墜落していった。
全ての敵を排除したヴァンは、ゆっくりと崖の上へと舞い戻り、着地と同時に同化を解除した。
背中の光の翼が光の粒子となって霧散していく。
「すげえ……。本当に空を飛んで、鳥の化け物どもを全滅させちまった」
バクスが腰を抜かしたまま、震える声で呟いた。
「お見事ね、ヴァン。ペガサスの魂と同調し、あれほどの空中機動を初見でこなすなんて。あなたの器は、やはり底が知れないわ」
セリアが満足そうに微笑みながら歩み寄る。
「空を飛ぶ感覚は悪くなかった。だが、三次元での姿勢制御は普段使わない筋肉を酷使するな。少し腹が減った」
ヴァンが普段通りの淡々とした声で言うと、バクスはハッと我に返り、勢いよく立ち上がった。
「任せておけ。崖下に落ちた怪鳥の胸肉を回収して、すぐに極上の飯にしてやる」
数時間後。
山岳地帯のさらに上部へと続く道すがら見つけた、風をしのげる広めの洞窟の中。
そこには、肉が焼ける暴力的なまでに香ばしい匂いが充満していた。
バクスは怪鳥の巨大な胸肉を分厚く切り分け、特製の酵素液で揉み込んだ後、熱した平らな岩の上で豪快に焼き上げていた。表面はカリッと黄金色に焼け、内側からは魔力をたっぷり含んだ透明な肉汁が溢れ出している。
「さあ、食ってくれ。烈風の怪鳥の特製厚切りステーキだ。風の魔力繊維を完全にほぐしてあるから、口の中でとろけるぜ」
ヴァンは木の皿を受け取り、大きく口を開けて肉にかぶりついた。
噛み締めた瞬間、濃厚な旨味とともに、清涼感のある不思議な魔力が全身に広がるのを感じた。それは熱ではなく、肌の表面に見えない薄い膜を張るような感覚だった。
「……美味い。それに、さっきまで感じていた岩穴の冷気が、全く気にならなくなった」
ヴァンが自分の腕を見つめて呟く。
「ええ。それに、風の抵抗も感じないわ。これなら、山頂の恐ろしい吹雪の中でも、平地を歩くように進むことができるわね」
セリアも上品に肉を切り分けながら、その劇的な恩恵に目を輝かせた。
「へへっ、だろ。これが魔物料理の真髄さ。どんな過酷な環境でも、その土地の魔物を食らえば、環境を克服する力が手に入るんだ」
バクスが誇らしげに鼻を鳴らし、自らも巨大なステーキに食らいつく。
洞窟の外では、徐々に標高が上がり、雪が混じった凶暴な吹雪が吹き荒れ始めていた。しかし、焚き火を囲む三人の間には、その寒さを微塵も感じさせない、豊かで温かな時間が流れている。
迫害された料理人の腕と、異端の召喚術、そして最強の戦士。
三つの規格外の力が交わることで、彼らは魔境という死の領域すらも、極上の日常へと塗り替えていくのだった。




