第45話 荒野の終着点と次なる頂き
荒野の赤茶けた大地が徐々にその色を失い、巨大な岩肌が剥き出しになった険しい山岳地帯が視界を覆い尽くし始めていた。
ここが魔境の第二層への入り口である。吹き下ろしてくる風は、荒野特有の肺を焼くような乾いた熱風から一転し、肌を鋭く刺すような氷の冷気を帯びている。
「いよいよここから先は、本格的な山越えになるな」
分厚い毛皮のコートを羽織った獣人のバクスが、雲を突くようにそびえ立つ巨大な山脈を見上げて息を白くした。彼の背負う大きな荷袋には、昨日仕留めた暴砂の翼竜の尻尾肉を特製の酵素液と香草でじっくりと燻し上げた、極上の携帯食料がぎっしりと詰まっている。
隣を歩くセリアが、深い青の外套を引き寄せ、冷たい風から身を守りながら気遣うようにヴァンの顔を覗き込んだ。
「体調はどう、ヴァン。昨日の強烈な同化の反動は残っていないかしら?」
彼女の落ち着いた、しかし確かな思いやりを含んだ声に対し、ヴァンは背中の漆黒の斬馬刀の柄を軽く叩いてみせた。
「全く問題ない。むしろ、かつてないほど体が軽く、力が満ちているのを感じる」
ヴァンの静かな言葉は真実だった。バクスの作る魔物料理を口にするようになってから、ヴァンの肉体には劇的な変化が起き続けている。同化召喚による筋繊維の断裂や魔力的な過負荷は、食事をとるたびに凄まじい速度で超回復を引き起こし、彼の器そのものをより強靭で巨大なものへと作り変えていた。
勇者パーティーで干し肉と水だけで命を削るように裏方をこなしていた頃とは、文字通り次元が違う仕上がりである。
「よし、それなら少しペースを上げて一気に中腹の洞窟まで……」
バクスが意気揚々と先頭を歩き出そうとした、まさにその時だった。
彼らの前方を塞いでいた巨大な岩山の一部が、不自然な地響きとともにズズズと動き出したのだ。
「……下がれ、バクス」
ヴァンが低い声で警告すると同時、周囲の岩石と同化して擬態していた巨大な魔物が、そのおぞましい全貌を現した。
体長は優に七メートルを超える。鋭い牙を持つ獅子のような頭部、無数の岩石で構成された強固な山羊の胴体、そして尾には強酸の毒液を滴らせる巨大な毒蛇を備えた、魔境の関所を守る悪夢のような合成獣。
岩石の合成獣、ロック・キメラである。
「ゲッ、あんなデカい合成獣がこんな入り口にいやがるのかよ!」
バクスが腰の包丁を抜き放ちながらも、その鋭い嗅覚と料理人としての知識で瞬時に相手の食材としての価値を値踏みし始めた。
「ヴァン、セリア。獅子の頭は筋張ってて臭みが強いから食えないし、蛇の尾は猛毒の酸の袋だ。だが、あの山羊の胴体の中には、極上の脂が詰まった骨髄があるはずだ。あれさえ手に入れば山越えの寒さを凌げる極上のシチューができる。だから頼む、胴体だけは粉々にしないでくれ!」
「了解した。見事に取り出してみせよう」
過酷な死闘を前にして交わされるのは、もはや戦術の確認ではなく食材の確保に関するやり取りだった。魔力を持たない戦士と、異端の召喚師、そして迫害された獣人の料理人。この数日で、彼らのパーティーには確固たる狂気の日常が形成されていたのだ。
「セリア。頭と尾の複合攻撃を同時に捌きつつ、岩の装甲の隙間を縫って胴体の芯だけを一撃で貫く力が必要だ」
「ええ、分かっているわ。複数の敵意を同時に完全に制圧し、精緻な一撃を叩き込むための多腕の闘神を呼ぶわね」
セリアが両手を胸の前で交差し、冷たい風が吹き荒れる山岳の入り口で、天を仰いで高らかに詠唱を紡ぐ。
「極東の血塗られた神話において、千の武器を振るい万の敵を屠ったとされる戦の鬼。三面六臂の修羅王よ、その絶え間なき闘争と調伏の記憶を、今この器に宿したまえ」
虚空に展開されたのは、禍々しくも神々しい、赤黒い炎を纏った巨大な曼荼羅のような魔法陣だった。
そこから、三つの顔と六本の腕を持つ、恐るべき東洋の闘神の幻影が現れる。幻影は周囲の空間の空気を歪めるほどの圧倒的な殺気と威圧感を放ちながら、ヴァンの巨体へと真っ直ぐに吸い込まれるように同化した。
「同化召喚・六臂の修羅王」
直後、ヴァンの背中から噴き出した赤黒いオーラが実体化し、四本の巨大な「幻影の腕」となって顕現した。彼自身の両腕と合わせ、計六本の腕。
これまでの同化召喚の中でも群を抜いて異質であり、精神への負荷が計り知れない神話級の魂である。普通の人間であれば六つの腕の感覚に脳が焼き切れ、三つの視界に自我を粉砕されるだろう。しかし、ヴァンの冷徹な虚無の瞳は一切の狂気に呑まれることなく、目前のキメラの各部位の動きを正確に捉えていた。
「グルァァァァッ!」
ロック・キメラが咆哮を上げ、獅子の牙と蛇の毒牙を左右から同時に突き出して襲いかかってくる。
「シッ」
ヴァンは微塵も動じない。
背中から生えた四本のオーラの腕が、まるで自らの独立した意思を持つように滑らかに動き出す。二本の幻影腕が獅子の巨大な顎を上下からガシリと掴んで強引に押さえ込み、もう二本の幻影腕が、死角から迫る蛇の尾の首根っこを正確に握り潰して酸の噴射を完全に封じた。
「なっ……なんだあの腕は。規格外にも程があるぞ……」
後方で見ていたバクスが、信じられないものを見るように目をひん剥き、ゴクリと唾を飲み込む。
完全に二つの頭部の動きを封じられたロック・キメラの巨大な岩の胴体が、ヴァンの目の前に無防備に晒される。
ヴァンは彼自身の両腕で漆黒の斬馬刀を上段に構え、修羅王の極限の膂力を乗せて、岩石の山羊の胴体へと一直線に振り下ろした。
ガガァァァァァンッ。
斬馬刀の刃が、硬質な岩の装甲を豆腐のように叩き割る重低音が響いた。
バクスの要求通り、胴体そのものを粉砕するのではなく、装甲の継ぎ目から深々と刃を滑り込ませ、キメラの生命線である魔石の核のみを精緻に両断したのだ。
断末魔の声を上げる暇もなく、キメラの巨体が地響きを立てて崩れ落ちた。
獅子と蛇の部位は瞬時に機能を停止し、岩石の胴体からはバクスの望んだ極上の骨髄が、一切傷つくことなく完璧な状態で残されていた。
ヴァンはオーラの腕を霧散させ、静かに同化を解除した。
膨大な魔力消費と脳への負荷が全身を襲うが、昨晩の燻製肉の力がすぐさま細胞を修復し、彼の呼吸を穏やかなものへと整えていく。
「見事な刃筋だったわ、ヴァン。あんな複雑な神話の魂まで、完全に制御してしまうなんて」
セリアが誇らしげに微笑みながら歩み寄る。
「ああ。バクスの飯のおかげで、器の許容量が確実に広がっているのを感じる。これでまた一つ、限界を超えられた。……バクス、注文通り胴体は残したぞ」
ヴァンが振り返ると、獣人の料理人はすでに巨大なノコギリと骨割り用の包丁を手に、目を輝かせてキメラの死骸に取り憑いていた。
「最高だぜ、あんたたち。この骨髄は、冷たい山越えで体を芯から温める極上の濃厚シチューになる。人間の街の貴族だって、一生味わえないような至高の一品にしてやるよ」
バクスの弾むような声が、冷たい風が吹く山岳地帯に響き渡る。
迫害され、社会の底辺を這いずり回っていた三人の異端者たち。
彼らは今、互いの絶対的な力と技術を組み合わせることで、魔境という死地を極上の食卓へと変えながら、かつて誰も到達したことのない高みへと足を踏み入れようとしていた。
荒野の旅は完全に終わりを告げた。
見上げるほど高く、分厚い雲に覆われた未知なる山岳地帯。そこに潜む新たな神話の幻獣たちや底知れぬ脅威を狩り尽くすため、ヴァン、セリア、バクスの三人は、確かな足取りで険しい岩の斜面を登り始めたのだった。




