第44話 荒野の主と極上の隠し味
荒野の景色が少しずつ変わり始めていた。
見渡す限りの赤茶けた平原は終わりを告げ、巨大な岩柱や切り立った渓谷が姿を現し始める。そのさらに奥には、雲を突き抜けるほど巨大な山脈が、魔境の第二層として立ちはだかっているのが見えた。
「いよいよ荒野も終わりだな。あの山を越えるとなると、気候も魔物の質もガラッと変わるぞ」
先頭を歩くバクスが、空気を嗅ぎながら振り返った。
彼の背中には、この数日でヴァンが狩った魔物の素材や肉がぎっしりと詰まった大きな荷袋が背負われている。
「ヴァン、セリア。山に入る前に、どうしても狩っておきたい獲物がいるんだ。少し遠回りになるが、付き合ってくれないか」
「構わない。お前が必要だと言うなら、それは俺たちに必要なものだ」
ヴァンの即答に、バクスは嬉しそうに犬歯を覗かせて笑った。
「ありがてえ。実はな、この荒野と山脈の境界付近には、暴砂の翼竜と呼ばれる巨大な飛竜が棲みついているんだ」
バクスは地面に簡単な地図を書きながら説明する。
「そいつの尻尾の肉は、強い魔力を含んでいるだけじゃなく、特有の保存作用がある。俺の酵素液と香草を使って燻製にすれば、何ヶ月も腐らず、一口かじるだけで丸一日走り続けられる極上の携帯食料になるんだ。過酷な山越えには、絶対にそいつが必要になる」
「暴砂の翼竜……。空を飛ぶ魔物となると、これまでの地を這う獣たちとは勝手が違うわね」
セリアが顎に手を当てて思考を巡らせる。
「空からの奇襲や、砂嵐を使った目眩し。厄介な相手だけど、ヴァンの今の仕上がりなら問題ないわ」
バクスの嗅覚を頼りに、三人は岩場が入り組んだ渓谷の奥深くへと足を踏み入れた。
風の音がヒューヒューと不気味に鳴り響く中、突如として上空から巨大な影が舞い降りた。
頭上の太陽を遮るほどの巨大な翼。体長十メートルを超える黄褐色の飛竜が、耳をつんざくような咆哮とともに急降下してきたのだ。
飛竜が巨大な翼を羽ばたかせると、渓谷の砂が巻き上げられ、視界を完全に奪う猛烈な砂嵐が発生した。
「来たぞ! 砂嵐に紛れて、死角から鋭い爪で引き裂くのがあいつの狩りのやり方だ!」
バクスが強風に耐えながら叫ぶ。
「視界が奪われても関係ない。俺の肌が、奴の羽ばたきが生み出す風の乱れを完全に捉えている」
ヴァンは吹き荒れる砂嵐の中、一切の動揺を見せずに立ち尽くしていた。彼の超人的な観察眼と、痛覚を遮断された皮膚感覚は、砂の粒がぶつかる物理的な刺激の向こう側にある飛竜の動きを正確に読み取っていた。
「セリア。上空からの一撃を、正面から貫き伏せる魂を頼む」
「ええ。相手が空の覇者なら、こちらは天を穿つ一撃で応えるわ」
セリアが深い青の外套をなびかせながら、両手を胸の前で強く結んだ。
「神話の時代、天を翔ける邪竜をただ一突きで撃ち落としたとされる、西方大陸の誇り高き竜殺しの槍騎士。その黄金の闘気と、絶対的な貫通の記憶を、今この器に宿したまえ!」
虚空に、眩い黄金色の魔法陣が展開される。
そこから現れたのは、全身を流線型の美しい黄金の甲冑で包み、身の丈の三倍はある長大な馬上槍を構えた騎士の幻影だった。幻影は空を裂くような鋭い気迫を放ちながら、一直線にヴァンの肉体へと同化した。
「同化召喚・黄金の槍騎士」
ヴァンの肉体が、眩い黄金の闘気に包まれる。
狂戦士や剣闘士の時とは違う。全ての筋力と魔力が、ただ一点を貫くためだけに極限まで収束していく、恐ろしいほどの集中と静謐。
「グァァァァァッ!」
砂嵐の向こうから、飛竜が巨大な両足の爪を剥き出しにして襲いかかってきた。その速度と質量は、城壁すらも容易く粉砕するほどの威力を持っている。
だが、ヴァンは背中の漆黒の斬馬刀を引き抜くと、それを振り下ろすのではなく、槍のように体の正面で水平に構えた。
刃渡り二メートル、分厚く巨大な大剣。それを突きの姿勢で構えること自体が常軌を逸しているが、黄金の槍騎士の魂は、ヴァンの肉体にそれを可能にする究極の体捌きを与えていた。
「貫け」
飛竜の爪がヴァンの頭上に迫ったその瞬間。
ヴァンは大地を蹴り、巨大な斬馬刀を渾身の力で前方へと突き出した。
ズドォォォォォォォォンッ!!!
斬馬刀の切先から放たれた黄金の闘気が、物理的な竜巻となって一直線に射出された。
それは飛竜が巻き起こしていた砂嵐を完全に吹き飛ばし、飛竜の分厚い鱗を紙切れのように貫通して、巨大な心臓を正確に撃ち抜いた。
空中で完全に動きを止めた飛竜は、断末魔の悲鳴すら上げる暇もなく、ドスンという地響きとともに渓谷の底へと墜落した。
「……ふぅ」
ヴァンは斬馬刀を肩に担ぎ直し、ゆっくりと同化を解除した。
空を覆っていた砂嵐が嘘のように晴れ渡り、澄み切った青空が渓谷の上に広がっていく。
「す、すげえ……。あんな巨大な飛竜を、大剣の突き一発で落としちまうなんて」
バクスが目を丸くしながら、墜落した飛竜の巨体に駆け寄る。
「見事な一撃だったわ、ヴァン。槍騎士の貫通力と、あなたの持つ斬馬刀の質量が完全に噛み合っていたわね」
セリアも満足そうに微笑みながら歩み寄ってきた。
「ああ。だが、この大剣で突きの型を行うのは、筋肉への負担が異常に大きい。バクスの料理で体が仕上がっていなければ、筋繊維がズタズタに引き裂かれていただろうな」
ヴァンは自分の腕を軽く回しながら、バクスの方へ視線を向けた。
「よし! 尻尾の肉は傷一つついてないぜ! 最高の状態だ!」
バクスは包丁を取り出し、飛竜の巨大な尻尾を手際よく解体し始めた。
その日の夜。
荒野の最後の野営地には、食欲をそそる芳醇な香りが漂っていた。
バクスは飛竜の肉を特製の酵素液に漬け込み、荒野に生える香木を使ってじっくりと燻し上げていた。出来上がったのは、表面はカリッと香ばしく、内側には魔力と旨味がぎっしりと詰まった、極上の燻製干し肉だった。
「さあ、食べてみてくれ。俺の最高傑作、暴砂の飛竜の特製燻製肉だ」
ヴァンがひとかけら口に含むと、凝縮された濃厚な肉の旨味と、突き抜けるような香草の香りが口いっぱいに広がった。そして、噛み締めるたびに、失われた体力が瞬時に回復し、体の底から無限の活力が湧き上がってくるのを感じた。
「……驚いたな。これほど小さく軽いのに、信じられないほどのエネルギーが詰まっている」
「ええ、本当に素晴らしいわ。これなら、険しい山脈での長期戦になっても、魔力切れを起こす心配はないわね」
セリアも感嘆の声を漏らし、大切そうに燻製肉を袋に仕舞い込んだ。
「へへっ、喜んでもらえて何よりだ。俺一人じゃ、こんな極上の食材を手に入れることなんて一生できなかった。ヴァン、セリア。俺を仲間に引き入れてくれて、本当にありがとうな」
バクスは照れくさそうに笑いながら、焚き火の向こうの二人に向かって深く頭を下げた。
「感謝するのはこちらの方だ、バクス。お前のおかげで、俺たちはもっと先へ進める」
ヴァンの静かな、しかし温かみのある言葉に、獣人の料理人は嬉しそうに尻尾を揺らした。
荒野の夜空に、満天の星が輝いている。
互いの欠落を埋め合わせ、共に高みを目指す三人の絆は、この過酷な魔境の旅を通じて、決して揺るがない強固なものへと成長していた。
彼らの視線の先には、いよいよ魔境の第二層、天を突く巨大な山岳地帯が静かに待ち受けている。




