第43話 荒野の晩餐と雷鳴の剣闘士
赤茶けた荒野の地平線に太陽が沈み、空が深い群青色に染まる頃。
岩陰に設営されたヴァンたちの野営地は、これまでの過酷な旅路からは想像もつかないほど、豊かで温かな空気に包まれていた。
「よし、いい具合に煮込めてきたぜ」
焚き火の前で、獣人のバクスが木杓子を片手に満足げな声を上げた。
火にかけられた大鍋の中では、昨日仕留めた砂鎧の猟犬の分厚い肉が、昼間に倒した大顎の地虫から抽出した酵素液と共にグツグツと音を立てている。最初は岩のように硬かった魔獣の肉が、酵素の力で繊維の奥まで解け、赤ワインに似た荒野の果実の果汁と絡み合って、暴力的なまでに食欲をそそる香りを漂わせていた。
「さあ、食ってくれ。砂鎧の猟犬の特製トロ煮込みだ。付け合わせには、この辺りで採れる苦味のある野草を添えてある。肉の脂を中和して、胃もたれを防ぐ効果があるんだ」
木の器にたっぷりと盛られた熱々の煮込み肉を手渡され、ヴァンは無言で木のスプーンを差し込んだ。
驚くべきことに、ナイフなど全く必要なかった。スプーンがわずかに触れただけで、分厚い肉の塊がホロリと崩れたのだ。
そのまま一口、口に運ぶ。
「……」
ヴァンの動きがピタリと止まった。
肉は噛む必要すらないほど柔らかく、舌の上でとろけると同時に、濃厚な旨味と野性味あふれる肉汁が爆発的に広がった。苦味のある野草が絶妙なアクセントとなり、次から次へと肉を口に運びたくなる。
しかし、驚くべきは味だけではなかった。
「……体が、熱い」
ヴァンが自身の太い腕を見つめて呟く。
胃袋に収まった肉が強烈な熱を放ち、全身の血管を駆け巡り始めたのだ。それは単なる体温の上昇ではない。細胞の一つ一つが活性化し、筋肉の繊維が内側から膨張して、肉体の限界値そのものが底上げされているような、圧倒的な万能感。
隣で食べていたセリアも、驚きに紫色の瞳を見開いていた。
「すごいわ、これ……。私の魔力回路に、澄み切った純粋な魔力がどんどん流れ込んでくる。昨日の狂戦士の同化で消耗していた魔力が全回復するどころか、最大値まで上がっているみたい」
二人の反応を見て、バクスは誇らしげに胸を張った。
「人間の連中は魔物の肉を『毒の塊』って呼ぶが、それは半分正解で半分間違いだ。魔物はその肉体に、強大な魔力を蓄えている。処理を間違えればただの猛毒だが、毒腺を正確に抜き取り、適切な食材と掛け合わせれば、それは肉体と魂を強制的に強化する極上の霊薬に変わるんだ」
バクスは自らの器に盛られた肉を美味そうに頬張りながら続けた。
「特にヴァンの旦那みたいに、規格外の力を使う人間には、それに見合った規格外の栄養が必要だ。普通のパンや干し肉じゃ、いずれ肉体が干からびちまう。俺の料理は、旦那の体を内側から補強する最高の鎧になるぜ」
「……ああ。最高の鎧だ」
ヴァンはあっという間に器を空にし、二杯目をおかわりした。
彼の内にある「虚無」は、どれほど強力な英霊の魂を降ろされても耐えうる完璧な器だが、物理的な肉体の損耗までは防ぎきれない。バクスの魔物料理は、その唯一の弱点である「肉体の摩耗」を完璧に補い、さらなる高位の同化を可能にする究極のピースだったのだ。
その時、満腹感に満たされつつあった野営地の空気が、微かな殺気によってピリッと張り詰めた。
「……ヴァン。風下から来るわ」
セリアが器を置き、探知魔法を展開しながら立ち上がった。
バクスもまた、鼻をヒクヒクと動かして鋭い犬歯を剥き出しにする。
「血の匂いと……腐った土の匂いだ。数が多いぞ。俺の煮込みの匂いに釣られて、荒野のハイエナどもが集まってきたらしい」
暗闇の荒野から、無数の赤い眼光が浮かび上がった。
現れたのは、「血鬣のハイエナ(ブラッド・メイン)」と呼ばれる群れだった。体長は二メートルほどだが、背中に生えた赤い鬣から麻痺毒を撒き散らし、数十匹の群れで獲物を囲い込んでなぶり殺すという、極めて狡猾で厄介な魔獣だ。
「せっかくの晩餐の余韻を邪魔するとは、無粋な連中ね」
セリアは深い青の外套を翻し、ヴァンの背後へと回った。
「ヴァン。バクスの料理で底上げされたあなたの今の器なら、これくらいの魔力を流し込んでも耐えられるわね?」
「ああ。むしろ、体が軽すぎて力が有り余っているところだ」
ヴァンは背中の漆黒の斬馬刀をゆっくりと引き抜き、群れに向かって一歩踏み出した。
「今回は、数で攻めてくる群れを一網打尽にするための魂よ」
セリアが両手を広げ、魔境の夜空に響き渡る声で詠唱を紡ぐ。
「西方大陸の闘技場において、雷を纏いし双刃で無数の敵を屠り、生涯無敗を誇ったとされる雷鳴の剣闘士よ。その紫電の軌跡と闘争の記憶を、今この器に宿したまえ!」
虚空に、バチバチと紫色の放電を伴う巨大な魔法陣が展開される。
そこから現れたのは、半裸の筋肉質な肉体に、青銅の装具を身につけた古代の剣闘士の幻影だった。その両手には、雷の魔力を纏った目にも留まらぬ速さの双剣が握られている。幻影は不敵な笑みを浮かべると、雷鳴のような轟音と共にヴァンの肉体へと同化した。
「同化召喚・雷鳴の剣闘士」
ドクンッ、とヴァンの肉体が跳ねる。
直後、彼の全身から凄まじい紫電がほとばしり、荒野の暗闇を真昼のように照らし出した。
これまでの東洋の剣豪が持つ「静」の剣撃とも、狂戦士の持つ「暴」の力とも違う。雷鳴の剣闘士の魂は、ヴァンの肉体に「神速の反射神経」と「雷を操る魔力放出」を同時にもたらしていた。
「グルルゥゥッ!」
群れのリーダーが咆哮を上げ、数十匹のハイエナが一斉にヴァンに向かって飛びかかってきた。麻痺毒の粉塵が夜風に乗って襲いかかる。
「遅い。それに、その程度の毒なら、今の俺の肉体には効かない」
バクスの料理によって生命力を極限まで高められたヴァンは、毒の粉塵を意に介することなく、ただ一歩、無造作に踏み込んだ。
右手に握られた刃渡り二メートルの漆黒の斬馬刀。本来であれば両手で振るうべきその巨大な質量兵器を、ヴァンは剣闘士の神速の技術と雷の魔力を乗せ、片手で軽々と薙ぎ払った。
ギィィィンッ!
斬馬刀から放たれた強烈な紫電の刃が、半月状の軌道を描いて荒野を駆け抜けた。
「ギャンッ!?」
「キャインッ!」
雷を纏った漆黒の刃は、前衛にいた十数匹のハイエナの胴体を一瞬にして両断し、さらに傷口から侵入した雷の魔力が、後続のハイエナたちを次々と感電させていく。
圧倒的な範囲制圧能力。
ヴァンは止まらない。斬馬刀を軸にして独楽のように回転し、次々と神速の雷刃を放ち続ける。
剣闘士の記憶が導き出す、闘技場で多勢を相手にするための完璧な立ち回り。そして、一切の痛覚を持たず、疲労を知らないヴァンの肉体が、その技術を100パーセントの出力で再現する。
わずか数分後。
荒野には、黒焦げになり、あるいは両断されて息絶えた血鬣のハイエナたちの死骸の山が築かれていた。
「……ふぅ」
ヴァンは斬馬刀についた血を払い、静かに同化を解除した。
全身から放たれていた紫電が収まり、元の静寂が荒野に戻る。息一つ乱れていないヴァンの姿を見て、バクスは呆然としながらも、興奮に尻尾を激しく振った。
「すげえ……! あれだけの数の群れを、瞬きする間に全滅させちまった……!」
「あなたの料理のおかげよ、バクス」
セリアが微笑みながら歩み寄る。
「ヴァンの同化は、強力な魂を降ろせば降ろすほど肉体に尋常ではない負荷がかかる。でも、あなたの作った料理が彼の細胞を内側から強化し、その負荷を相殺してくれたわ。これで、私たちはもっと高位の魂を降ろすことができる」
バクスはセリアの言葉に、嬉しさと誇らしさが入り混じった表情を浮かべた。
人間の国では誰にも認められなかった自分の料理が、最強の戦士と召喚師を支える絶対的な力となっているのだ。
「へへっ、任せておきな。この魔境には、まだまだ極上の食材が山ほど眠ってるはずだ。俺が全部、あんたたちの力に変えてやるよ!」
星空の下、焚き火の温かな光に照らされた三人は、確かな絆と信頼を胸に、次なる食材と未知なる強敵が待つ西の山岳地帯へと視線を向けたのだった。




