第42話 獣人の嗅覚と変化する野営
荒野の夜明けは、凍えるように冷たい。
しかし、その日の朝、ヴァンが目を覚ました時に感じたのは、骨まで染み入るような冷気ではなく、胃袋を直接掴まれるような強烈に香ばしい匂いだった。
身を起こすと、野営の焚き火にはすでに新しい薪がくべられ、パチパチと心地よい音を立てていた。その火の上では、使い込まれた鉄鍋が湯気を上げており、獣人のバクスが真剣な眼差しで木杓子を動かしている。
「おお、ヴァン。起きたか。ちょうど朝飯ができるところだぞ」
バクスは灰色の狼耳をピクッと動かし、振り返って白い歯を見せた。
「昨日の砂鎧の猟犬の骨を砕いて、一晩じっくり煮込んだスープだ。荒野に生えてる岩塩草と、少しばかりの香辛料で味を調えてある。魔獣の骨髄には魔力がたっぷり詰まってるからな、朝から体が芯まで温まるぜ」
ヴァンは無言のまま焚き火に近づき、差し出された木の器を受け取った。
乳白色に濁ったスープからは、野生の獣肉特有の臭みは一切消え去り、食欲をそそる濃厚な香りだけが漂っている。一口すすると、熱く深い旨味が五臓六腑に染み渡り、昨日狂戦士の同化で酷使した筋肉の疲労が、文字通り溶けていくような感覚に陥った。
「……美味い」
「だろ? 人間の街じゃ、魔獣の骨なんてゴミ扱いで捨てちまうが、俺たち獣人に言わせれば、毒さえ抜けばこれほど力になる食材はないんだ」
少し遅れてテントから出てきたセリアも、スープを一口飲んで目を丸くし、幸せそうに頬を緩めた。
ヴァンにとって、野営の朝に誰かが食事を作って待っているなどという状況は、これまでの人生で一度も経験したことのないものだった。
勇者パーティーにいた頃は、レオンたちが高いびきをかいて眠っている間に、ヴァンが一人で火を起こし、見張りをし、硬い干し肉と水だけの味気ない朝食を準備するのが当たり前だったからだ。
「バクス。お前が仲間になってくれて、本当に助かるわ。これまではヴァンの負担が大きすぎたもの」
セリアの言葉に、ヴァンは静かに頷いた。
食事の準備だけではない。バクスが加わったことで、彼らの旅の質は劇的に向上し始めていたのだ。
朝食を終え、荒野の行軍を再開してから数時間後。
その変化は、戦闘を避けるための「索敵」という形ではっきりと表れていた。
「ストップ。ヴァン、セリア、止まってくれ」
先頭を歩いていたバクスが、ふいに右手を上げて立ち止まった。彼は鼻をヒクヒクと動かし、風下から流れてくる微かな匂いを嗅ぎ取っている。
「この先の岩山の裏から、酸っぱい腐臭が混ざった風が吹いてくる。おそらく、大毒蠍の群れだ。数は二十……いや、三十はいるな。あいつらの肉はアンモニア臭くて煮ても焼いても食えないし、甲殻も脆くて武器の素材にならない。ただ疲れるだけだから、東の枯れ谷を迂回しよう」
「分かった。お前の判断に従う」
ヴァンは一切の疑問を挟むことなく、すぐさま進行方向を東へと切り替えた。
これまでは、セリアの魔力探知とヴァンの戦術眼で敵の気配を探っていたが、広大な魔境において、魔力を持たない生物や地中に潜む魔物を完全に察知するのは困難だった。しかし、バクスという獣人の鋭敏な嗅覚と、料理人としての「食材になるかならないか」という独特の判断基準が加わったことで、彼らは無駄な戦闘を完全に避けることができるようになったのだ。
「すげえな、あんたたち」
枯れ谷を歩きながら、バクスが感嘆の声を漏らした。
「俺みたいなぽっと出の獣人の言うことを、疑いもせずに信じてくれるなんてよ。人間の冒険者パーティーに入ろうとした時は、『獣の鼻なんて当てになるか』って蹴り飛ばされたもんさ」
「俺は裏方として、地形や魔物の生態を観察し続けるのが仕事だった。だからこそ分かる。お前のその嗅覚と知識は、一流の斥候すら凌駕しているとな。使えるものは全て使う。それが俺のやり方だ」
ヴァンの淡々とした言葉に、バクスは照れくさそうに尻尾を振った。
社会から不要とされ、底辺で泥水をすすってきた者同士。彼らの間には、種族の壁を越えた確かな信頼が、すでに芽生え始めていた。
しかし、魔境はそれほど甘い場所ではない。
迂回した枯れ谷の出口付近に差し掛かった時、バクスの耳がピンと立ち、彼の表情が一気に険しくなった。
「……マズい。風向きが変わった。地中だ!」
バクスが叫ぶと同時、彼らの足元の赤土が爆発するように吹き飛んだ。
地中から姿を現したのは、体長五メートルを超える巨大なムカデの化け物、大顎の地虫だった。硬質な黒い甲殻に覆われ、巨大な二つの顎がギシギシと不気味な音を立てている。
「こいつの肉は……」
「臭みが強すぎる上に、身がパサパサで食えたもんじゃない。完全な外れ食材だぜ!」
バクスの悲痛な叫びに、ヴァンは短く「そうか」とだけ返し、背中の漆黒の斬馬刀をゆっくりと引き抜いた。
「セリア。食えないなら、原型を留める必要はない。一撃で粉砕する」
「ええ、分かっているわ。今回は、硬い甲殻を上から叩き潰すための、圧倒的な質量と重力の魂よ」
セリアが後方に跳び退きながら、両手を天へと掲げる。
「岩山を砕き、大地を揺るがす西方神話の巨獣。全てを圧壊させる岩石の魔牛よ、その重き破壊の記憶を、今この器に宿したまえ!」
虚空に展開された黄土色の魔法陣から、全身がゴツゴツとした岩で構成された巨大な猛牛の幻影が飛び出し、ヴァンの巨体へと同化した。
「同化召喚・岩砕きの魔牛」
ヴァンの筋肉が異常な密度にまで圧縮され、彼の足元の地面がその体重と魔力に耐えきれずに放射状にひび割れた。魔牛の魂がもたらすのは、素早さや技巧ではない。ただひたすらに重く、そして硬い、絶対的な質量兵器としての力。
「シャァァァァッ!」
大顎の地虫が、獲物を一息に噛み砕こうと巨大な顎を開いて襲いかかってくる。
ヴァンは回避すらしようとしなかった。
彼は漆黒の斬馬刀を上段に構え、魔獣の顎が迫るその瞬間、自身の足元の岩盤を踏み砕いて前方へと跳躍した。魔牛の重力魔法が斬馬刀の刃に収束し、本来の何倍もの質量となって刀身にのしかかる。
「潰れろ」
短い呼気と共に振り下ろされた斬馬刀の一撃は、地虫の強固な頭部甲殻に直撃した。
ギガァァァァァンッ!!
まるで隕石が衝突したかのような轟音が枯れ谷に響き渡った。
魔法反射の甲殻を鍛え上げて作られた斬馬刀と、魔牛の魂による規格外の質量打撃。大顎の地虫の頭部は一瞬にして完全に圧壊し、その衝撃波は体全体を伝わって、黒い甲殻をバラバラに吹き飛ばした。
ズシン、と着地したヴァンは、緑色の体液を撒き散らして絶命した巨大な死骸を一瞥し、静かに同化を解除した。
「……すげえ。本当に、一撃で……」
離れた場所で身構えていたバクスは、腰の包丁の柄を握りしめたまま、ポカンと口を開けていた。
人間の街で迫害され、荒野を逃げ惑うことしかできなかった彼にとって、災害級の魔物をただの物理的な暴力で粉砕するヴァンの姿は、もはや恐怖を通り越して神々しさすら感じさせるものだった。
「終わったぞ、バクス。お前が食えないと言ったからな、少し派手にやりすぎたかもしれない」
ヴァンが斬馬刀の汚れを払いながら振り返ると、バクスはハッと我に返り、それから腹を抱えて豪快に笑い出した。
「はははっ! 最高だぜ、あんたたち! 最高の戦士と最高の召喚師、それに俺という最高の料理人がいれば、この魔境だってただの巨大な食材庫みたいなもんさ!」
バクスは死骸に近づくと、原型を留めている甲殻の隙間から、手際よく特定の部位だけを切り出し始めた。
「食えないって言ったが、こいつの体内にある『消化液の袋』だけは別だ。こいつを煮詰めると、どんなに硬い肉でもトロトロに柔らかくする最高の酵素液になる。今日の夕飯は、昨日の猟犬の残りの肉を使った極上の煮込み料理にしてやるよ!」
バクスの頼もしい宣言に、ヴァンとセリアは顔を見合わせ、かすかに微笑んだ。
戦闘における絶対的な力と、旅を支える完璧な野営の技術。
彼らのパーティーは、荒野の過酷な環境をものともせず、次なる未知の強敵と極上の食材を求めて、さらに西へと歩みを進めていくのだった。




