第41話 荒野の放浪者と極上の魔物料理
城塞都市を背にし、人間の国の国境を越えたヴァンとセリアの前に広がっていたのは、赤茶けた土と乾いた風が支配する果てしない荒野だった。
そこは、魔境への入り口。都市の結界や騎士団の庇護が一切届かない、力のみが絶対的な掟となる無法の地である。
強烈な日差しが照りつける中、ヴァンは背に担いだ漆黒の斬馬刀の重みを心地よく感じながら、淡々と歩みを進めていた。その後ろを、深い青の外套をすっぽりと被ったセリアが、荒野の特異な魔力溜まりを観察しながら続く。
「人間の国を出てから三日。魔物の気配も強くなってきたけれど、それ以上に……人間の放つ淀んだ気配が多いわね」
セリアが紫色の瞳を細め、前方の砂埃を指差した。
街道から少し外れた岩陰で、数人の屈強な男たちが下卑た笑い声を上げている。彼らは人間の国境付近を縄張りとする、質の悪い密猟者や賞金稼ぎの類だった。
そして、彼らの足元には、血まみれになってうずくまる一人の男がいた。
灰色の毛並みに覆われた狼の耳と、引き締まった尻尾。獣人である。男は粗末な旅装束を身に纏い、ボロボロになりながらも、背中に抱えた大きなズタ袋だけは絶対に手放そうとせず、必死に身を丸めて蹴りを受け止めていた。
「おいおい、薄汚い獣人のくせに、人間の街で料理人になりたいだぁ? ふざけるのも大概にしろよ!」
「獣は大人しく残飯でも漁ってりゃいいんだよ。おら、その袋の中身も全部置いていけ!」
男たちが容赦なく革靴で蹴り上げる。獣人の男は苦悶の声を漏らしながらも、鋭い犬歯を剥き出しにして睨み返した。
「……ふざけるな。これは、俺の包丁だ。料理人の魂だ……! お前らみたいな野蛮な奴らに、渡してたまるか……ッ!」
「威勢がいいのは目つきだけか。なら、俺たちの可愛い相棒の餌にしてやる」
密猟者のリーダー格が口笛を吹くと、岩の裏から巨大な魔獣が姿を現した。
体長三メートルを超える、砂鎧の猟犬。分厚い砂の装甲を纏い、鋼鉄すら噛み砕く顎を持つ凶暴な使役獣だ。
「やれ。その袋ごと噛み砕いてしまえ」
猟犬が低く唸り声を上げ、血の匂いに惹かれて獣人の男へと飛びかかろうとした、その瞬間。
「……退屈な余興だな」
低く、だが荒野の風を切り裂くほどに重い声が響いた。
いつの間にか、獣人の男を庇うように、漆黒の大剣を背負った巨漢の戦士が立ち塞がっていた。ヴァンである。
「なんだお前は! 魔法の気配もねえ、ただの戦士が俺たちに逆らおうってのか?」
密猟者たちが嘲笑するが、ヴァンの瞳には一切の感情が浮かんでいない。ただ、目前の魔獣の筋肉の収縮と、攻撃の軌道を冷静に見極めているだけだった。勇者パーティーで長年、野営の防衛を一人で担ってきた彼にとって、この程度の魔獣の動きなど止まって見えるに等しい。
「セリア。準備しろ」
「ええ、分かっているわ。ただの魔獣じゃ相手にならない。人間の理不尽と暴力には、それを遥かに凌駕する圧倒的な暴力で応えるべきよ」
ヴァンの背後から歩み出たセリアが、両手を天へと掲げた。
荒野の乾いた空気が一瞬にして凍りつき、魔境の淀んだ魔力が彼女の指先へと収束していく。
「今回は、西方大陸の凍てつく氷河で恐れられた狂乱の戦鬼。己の痛覚を代償に、獣すらも素手で引き裂いたとされる伝説の狂戦士。その血塗られた破壊の記憶を、今この器に宿したまえ!」
セリアの凛とした詠唱が響き渡ると同時、ヴァンの足元にどす黒い真紅の魔法陣が展開された。
陣の中から這い出てきたのは、全身に無数の傷跡を刻み、獣の毛皮を纏った筋骨隆々の西洋戦士の幻影だった。その両目は血のように赤く染まり、口からは獣のような咆哮が漏れている。幻影は自らの巨体を持て余すように暴れ狂いながら、真っ直ぐにヴァンの肉体へと激突し、同化した。
「同化召喚・狂戦士」
ドゴォォォンッ!
ヴァンの体内で、これまでの東洋の剣豪たちとは全く異なる、理性を焼き尽くすような爆発が起きた。
狂戦士の魂は、宿主の肉体を顧みない。筋肉の限界を超えた収縮を強制し、血管がはち切れんばかりの血流を生み出す。通常の人間であれば、この瞬間、凄まじい激痛と狂気に精神を破壊され、発狂していただろう。
しかし、ヴァンという器は底知れぬ虚無を抱えている。痛覚は完全に遮断され、いかなる狂気も彼の冷徹な自我を塗り潰すことはできない。
暴走する狂戦士の破壊衝動は、ヴァンの肉体という完璧な檻の中で純粋な物理的出力へと変換され、ただ暴力の塊として彼の全身を満たした。
「グルァァァァッ!」
砂鎧の猟犬が、本能的な恐怖を振り払うようにヴァンに向かって跳躍し、その強靭な顎を開いた。
「……遅い」
ヴァンは背中の斬馬刀を抜かなかった。
狂戦士の記憶が導くのは、己の肉体そのものを凶器とする野蛮にして最強の蹂躙。
彼は半歩踏み込み、迫り来る魔獣の巨大な顎を、なんと素手で上下から掴み止めたのだ。
「なっ……!?」
密猟者たちの顔が驚愕に引きつる。
ギシィィィッという不気味な骨の軋む音が荒野に響いた。
砂の装甲を持つ魔獣の顎が、ヴァンの常軌を逸した腕力によって完全に固定され、ピクリとも動かせなくなっている。
「これが、狂戦士の力か。悪くない」
ヴァンは淡々と呟くと、そのまま両腕の筋肉を爆発的に膨張させた。
メシャァァァァッ!!!
断末魔の悲鳴すら上げる隙を与えなかった。ヴァンの両腕が外側に向かって強引に振り抜かれた瞬間、魔獣の強靭な顎は上下に引き裂かれ、巨体が紙屑のように空を舞い、地面に叩きつけられた。
砂の装甲ごと物理的に破壊された魔獣は、大量の血を吐き出してピクリとも動かなくなった。
圧倒的、かつ残酷なまでの力の差。
魔法すら使わないただの戦士が、高ランクの使役獣を素手で引き裂いた。
その信じられない光景を前に、密猟者たちは腰を抜かし、やがて悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように荒野の彼方へと逃げ出していった。
静寂が戻った荒野で、ヴァンは両手についた魔獣の血を無造作に払い落とし、ゆっくりと同化を解除した。強烈な反動が肉体を襲うが、彼の呼吸はわずかに乱れた程度だった。
「ふふ、見事な蹂躙だったわ。あなたの虚無は、狂戦士の狂気すらも完全に制御してしまうのね」
セリアが満足そうに微笑みながら歩み寄る。
ヴァンは彼女の言葉に短く頷くと、足元で呆然と座り込んでいる獣人の男を見下ろした。
「……怪我はないか、料理人」
ヴァンの低く落ち着いた声に、獣人の男バクスはビクッと肩を震わせた後、信じられないものを見るような目で、血塗られた荒野に立つ巨漢の戦士を見上げた。
「あ、ああ……助かった。俺はバクスだ。あんたたち、ただの旅人じゃねえな……」
バクスはよろけながら立ち上がると、無惨に引き裂かれた砂鎧の猟犬の死骸を見つめた。
「この恩は必ず返す。あんたたち、腹は減ってないか? こいつの肉は砂臭くて毒があるって言われてるが、俺の腕なら極上の飯にできる」
数十分後。
荒野の岩陰で焚き火が起こされ、バクスがズタ袋から取り出した見事な業物の包丁を振るっていた。
彼は手際よく魔獣の毒腺を取り除き、荒野に生える特殊な香草をすり込んで砂臭さを完全に消し去る。そして、彼の種族特有の鋭い嗅覚と、料理人としての研ぎ澄まされた知識が、一般には廃棄されるはずの魔獣の肉を、信じられないほど芳醇な香りを放つ分厚いステーキへと変えていった。
「さあ、食ってくれ。俺の特製、砂鎧猟犬の香草焼きだ」
木の皿に盛られた肉を一口食べた瞬間、ヴァンとセリアは目を見開いた。
ただ美味いだけではない。狂戦士の同化で酷使されたヴァンの筋肉繊維が、食事をとるそばから熱を持ち、劇的な速度で修復されていくのを感じたのだ。セリアの消耗した魔力も、信じられないペースで底上げされていく。
「これは……ただの料理じゃない。食材に残留する魔力を、肉体と魂に最適化して取り込ませているのね」
セリアの驚きの声に、バクスは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「俺の料理は、魔物や召喚獣の肉を扱うことに特化してるんだ。人間の街で自分の店を持つのが夢だったんだが……人間の国じゃ、『獣人』ってだけで厨房にすら立たせてもらえなかった。さっきの奴らみたいに、荷物を奪われて追い出されるのがオチさ」
バクスの横顔には、差別によって夢を絶たれた者の深い諦めと悲哀が滲んでいた。
ヴァンは黙々と二皿目の肉を平らげると、焚き火越しにバクスを真っ直ぐに見据えた。
「美味い。俺が今まで食ってきたどんな飯よりな」
その短い言葉に、バクスは弾かれたように顔を上げた。
「俺たちはこれから、さらに過酷な魔境を越え、神話の存在すらも狩る旅に出る。極限の同化を繰り返す俺の肉体には、お前のその料理の腕が必要だ」
ヴァンは漆黒の斬馬刀を傍らに置き、バクスに向けて太い手を差し出した。
「人間の国がお前を不要だと言うなら、俺たちのパーティーに来い。お前の料理人としての魂、俺たちが護ってやる」
バクスは信じられない思いでヴァンの手と、隣で優しく微笑むセリアの顔を交互に見つめた。そして、込み上げてくる涙を獣の腕で乱暴に拭うと、ヴァンの手を力強く握り返した。
「ああ……行くぜ! あんたたちの胃袋は、このバクスが一生面倒見てやる!」
荒野の夜空の下。社会から追放された無能の戦士と異端の召喚師の旅路に、夢を絶たれた獣人の料理人という、かけがえのない最初の仲間が加わった瞬間だった。




