第40話 遥かなる魔境へ
暁の冷たい風が、広大な荒野の草花を揺らしていた。
野営地での短い休息を終えたヴァンとセリアは、朝靄を切り裂いて昇る朝日を背に受けながら、西方へと続く切り立った崖の上に立っていた。
眼下に広がるのは、これまで彼らが過ごしてきた城塞都市周辺の森や荒野とは比較にならない、圧倒的なスケールの大自然だった。雲を突くような巨大な山脈、底が見えないほど深い大地の裂け目、そして、遥か遠くで不気味な魔力の光を放つ古代の遺跡群。
そこは、人間の生存圏を完全に逸脱した、正真正銘の「魔境」だった。
「……見えるわ、ヴァン。あの山脈の向こう側に渦巻く、途方もない魔力の奔流が」
崖の縁に立つセリアが、深い青の外套を風に靡かせながら、紫色の瞳を細めて呟いた。彼女の視線の先には、都市の結界の中では決して感じることのできない、原始的で暴力的な力が満ち溢れている。
「ああ。ここから先は、ギルドの討伐依頼も、安全な宿屋も存在しない。俺たち自身の力だけで生き抜き、そして喰らっていくしかない世界だ」
ヴァンは、背に担いだ漆黒の斬馬刀の重みを確かめるように、肩を軽く回した。
かつて勇者パーティーの最底辺として、ただ荷物を運び、理不尽な暴力に耐えるだけだった男の面影は、もうどこにもない。そこにあるのは、自らの内に広がる底なしの虚無を満たすためだけに、最強の力を求め続ける純粋な戦士の姿だった。
「怖気づいた?」
セリアが、悪戯っぽく笑いながらヴァンを見上げる。
「誰に聞いている。むしろ、血が騒ぐという感覚を、生まれて初めて理解し始めているところだ」
ヴァンの静かな、しかし確かな熱を帯びた返答に、セリアは満足そうに微笑んだ。
「そうね。あなたという器がどこまで耐えられるのか、私の術がどこまで高みへ至れるのか。それを試すには、この世界は最高の舞台だわ」
セリアは崖から一歩下がり、ヴァンの巨体に向かって真っ直ぐに向き直った。そして、自らの胸に手を当て、誓いを立てるように凛とした声を響かせた。
「私は同化召喚師、セリア。かつて世界から不要とされた異端の術者。私は誓うわ。この世界の果てまであなたと共に歩み、神話の魔獣、古の英雄、そして天上の神々に至るまで、ありとあらゆる規格外の魂をあなたに降ろすことを」
その言葉は、城塞都市の地下教会で初めて契約を交わした日の誓いを、さらに強固なものへと昇華させる魂の宣言だった。
ヴァンもまた、漆黒の斬馬刀を背から下ろし、その切先を魔境の大地へと突き立てた。
「俺はヴァン。魔力を持たず、社会から追放された無能の戦士。俺も誓おう。お前がどんな理不尽な魂を降ろそうとも、俺の器は決して砕けない。お前の術の全てを受け入れ、立ち塞がるあらゆる脅威を、この刃で両断してみせる」
昇る朝日の光が、二人の姿を長く大地に影落とす。
虚無を抱えた最強の器と、それを満たす異端の召喚師。
誰からも理解されず、泥水の中で生きてきた二人が、自らの実力だけで名声と居場所をもぎ取り、そして、その全てを捨てて未知なる世界へと足を踏み出す。
都市の常識や虚栄にまみれた勇者たちの物語は、彼らの背後でとうの昔に色褪せていた。
「行くぞ、セリア。俺たちの本当の戦いは、ここからだ」
「ええ、行きましょう。この世界の全てを、私たちの力で蹂躙するために」
ヴァンが力強く大地を蹴り出し、セリアがその背中を追って歩み始める。
彼らの向かう先には、未だ誰も見たことのない神話の領域と、想像を絶する死闘が待ち受けているだろう。
しかし、絶対の信頼で結ばれた彼らの歩みに、迷いは一切なかった。
異端の二人が紡ぐ、新たな神話への旅が、今ここに始まる。




