第37話 地下教会への別れと新たな渇望
静寂の森の変異種討伐から数日後。
城塞都市の空気は、ヴァンとセリアの噂で完全に持ちきりになっていた。
スラムの掃き溜めで息を潜めていた二人は、今や都市で最も注目を集める存在へと変貌していた。ギルドからは特別報酬として莫大な金貨が支払われ、彼らは長らく拠点としていた地下の廃教会をついに引き払うことになった。
カビ臭い湿気と、魔石ストーブの小さな炎だけが頼りだった薄暗い地下室。
ヴァンは、最後に残っていた私物の麻袋を肩に担ぎ、苔むした祭壇を静かに見渡した。
「……ここを出る日が来るとはな」
「ええ。最初は、社会から隠れて生き延びるためだけの場所だったけれど」
セリアもまた、羊皮紙の束を抱えながら感慨深げに石壁を見上げた。
勇者パーティーから理不尽に追放され、全てを失ったヴァン。そして、異端の術者として誰からも忌み嫌われていたセリア。この冷たく暗い地下室は、世界から不要とされた二人が出会い、最強の刃を鍛え上げた始まりの場所だった。
「行くぞ。宿が待っている」
ヴァンは短く告げると、漆黒の斬馬刀を背負い、地上へと続く階段を上り始めた。
彼らが新たに拠点を移したのは、都市の歓楽街にある最高級の宿屋だった。
かつては勇者レオンたちだけが宿泊を許され、荷物持ちだったヴァンは馬小屋で寝起きさせられていた、あの宿である。
宿の豪奢な扉をくぐると、支配人が自ら飛んできて深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました、ヴァン様、セリア様。当宿で最も見晴らしの良い特室をご用意しております。お食事も、腕利きの料理長が最高の素材を揃えてお待ちです」
周囲の客たちも、食事の手を止めて二人に畏敬の眼差しを向けている。
嘲笑や蔑みの声は一切ない。そこにあるのは、圧倒的な力と実績を証明した本物の英雄に対する、純粋な称賛と羨望だけだった。
案内された特室は、ふかふかの絨毯が敷き詰められ、清潔なシーツの匂いが漂う、地下教会とは雲泥の差の空間だった。
テーブルには、かつてヴァンが勇者たちのために裏方として手配していたような、豪勢な肉料理と高級なワインが並べられている。
ヴァンは無言で席に着き、出された肉を淡々と口に運んだ。
確かに美味い。肉体への栄養補給としても申し分ない。
しかし、彼の表情はどこか晴れないままだった。
「……どうしたの、ヴァン。食事がお気に召さない?」
向かいの席で、ワイングラスを傾けていたセリアが不思議そうに首を傾げた。
「いや、美味い。ただ……」
ヴァンはフォークを置き、窓の外に広がる城塞都市の街並みを見下ろした。
安全で、快適で、誰も自分を無能と見下さない環境。それは確かに、彼がかつて路地裏の泥水をすすりながら、漠然と求めていたものだったはずだ。
「この街の連中が俺に頭を下げるようになったところで、俺の内側にある『虚無』が満たされるわけじゃないと気づいただけだ」
ヴァンの静かな言葉に、セリアはグラスを置いた。
「俺は、お前の術を通して、東方の天才剣客や西方大陸の聖騎士といった、途方もない英霊たちの人生と極致をこの身体で味わった。あの極限の感覚、ヒリヒリとするような戦いの記憶……それに比べれば、この街で得られる名声や贅沢など、ひどく退屈で空虚なものに思える」
痛覚を失い、自我の底が抜け落ちたヴァンにとって、唯一生きていることを実感できるのは、セリアの同化召喚によって未知なる強大な魂と交わり、限界を超えた力を振るう瞬間だけだったのだ。
その言葉を聞いたセリアの唇に、蠱惑的な、それでいて嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「奇遇ね。私も全く同じことを考えていたところよ」
セリアはテーブル越しに身を乗り出し、紫色の瞳を妖しく輝かせた。
「この都市の周辺にいる魔物では、もうあなたの器の底を測ることはできないわ。もっと高位の……そうね、おとぎ話に出てくるような空想の幻獣や、神話に名を残す神々、あるいは深淵の悪魔。そんな規格外の魂を降ろさなければ、あなたの本当の限界は引き出せない」
名声を得て、確かな居場所を手に入れたことで、彼らは逆にはっきりと自覚してしまったのだ。
自分たちはもはや、この小さな都市の常識や枠組みに収まるような存在ではないということを。
「世界は広いわ、ヴァン。この大陸の果てには、まだ誰も足を踏み入れたことのない魔境や、古の遺跡が眠っている。そこでなら、私たちはもっと高みへ至ることができるはずよ」
「……世界を巡る、か」
ヴァンは自らの分厚い両手を見つめ、ゆっくりと強く握り込んだ。
細胞の奥底で、まだ見ぬ強敵と、さらなる未知の魂との同化を渇望する熱が、静かに、しかし確実に燻り始めている。
「悪くない。俺の器がどこまで耐えられるか、お前の術でとことん試してくれ」
特室の窓から差し込む夕陽が、新たな決意を固めた二人の顔を赤く照らし出していた。
名声というカタルシスを満たした彼らの目は、すでにこの城塞都市を通り越し、遥か彼方に広がる広大な世界へと向けられていた。




