第31話 緊急依頼と裏方の眼
城塞都市の冒険者ギルドは、かつてないほどの緊迫した空気に包まれていた。
普段であれば昼間から酒をあおり、武勇伝を語り合う荒くれ者の冒険者たちも、今は固唾を呑んでギルドの最奥にある特設の掲示板を見つめている。そこには、血塗られた羊皮紙で一枚の緊急討伐依頼が張り出されていた。
都市の目と鼻の先、徒歩でわずか二時間ほどの距離にある「静寂の森」。本来ならば低ランクの薬草採取や、初心者冒険者の訓練場として使われる比較的安全なその森に、突如として強力な変異種の魔物が出現したのだ。
討伐に向かった中堅の召喚師パーティー三組は、いずれも帰還しなかった。唯一、瀕死の重傷を負って逃げ延びた偵察係の報告により、その魔物が「四ツ腕の鎧蜘蛛」の変異個体であることが判明していた。
本来の鎧蜘蛛は、地下深くの洞窟に生息する動きの鈍い魔物だ。しかし、報告によればその変異個体は森の木々を縦横無尽に飛び回り、召喚獣の放つ炎や雷の魔法を完全に反射する異常な甲殻を持ち、さらに獲物を誘導して罠にはめるという悪魔的な知能を有しているという。
都市の防衛隊を動かすには手続きに時間がかかる。だが、このまま放置すれば、魔物が森を抜け出し、城塞都市の外壁へと被害が及ぶのは時間の問題だった。
「……ヴァン殿。セリア殿。どうか、この依頼を引き受けてはいただけないだろうか」
ギルドマスターの分厚いマホガニーの執務机を挟み、初老のギルド長が深く頭を下げていた。
その正面には、腕を組んで無表情に立つヴァンと、ローブ姿のセリアがいる。ほんの数週間前まで、ギルドの隅で誰からも見向きもされず、無能と嘲笑されていた二人が、今や都市の命運を握る最後の切り札としてギルドマスターから直接懇願されているのだ。
「相手は通常の生態を完全に逸脱した変異種だ。魔法が通じず、物理的な甲殻も極めて硬いと聞く。だが、災害級の陸竜すらも己の肉体のみで屠ったというヴァン殿の規格外の力であれば、あるいは……」
ギルドマスターの震える声に、ヴァンは微かに目を細め、机の上に広げられた被害報告書と、逃げ帰った偵察係が書き残した乱雑なスケッチを見下ろした。
「セリア。どう思う」
ヴァンは視線を書類に落としたまま、背後の相棒に問いかけた。
「厳しい戦いになるわ。魔法を完全に反射する甲殻を持っているなら、安全な後方から魔法を撃つだけの通常の召喚師や魔術師では絶対に倒せない。純粋な物理攻撃でその装甲を砕くことができる、あなたの肉体と同化召喚だけがこの都市で唯一の対抗手段よ。でも、相手が森の立体的な地形を利用して高速で動くなら、ただ力任せに殴るだけでは当たらないわ」
セリアの的確な分析に、ヴァンは静かに頷いた。
「ああ。だが、倒せない相手じゃない」
ヴァンは報告書の一点を指差した。
「この偵察係の報告書には、蜘蛛が放つ糸が『白』ではなく『赤黒い粘液』だったと書かれている。そして、犠牲になったパーティーの召喚獣は、いずれも足元の沼地に誘い込まれてから動きを封じられている」
ヴァンはかつて、勇者レオンのパーティーで万年雑用係を押し付けられていた。
レオンたちは戦闘の華やかな部分だけを担い、事前の地形調査、魔物の生態把握、野営の防衛、そして逃走経路の確保といった泥臭い仕事の全てを、魔力を持たないヴァン一人に押し付けていたのだ。
結果として、ヴァンの中には、あらゆる魔物の習性や、地形が戦闘に及ぼす影響、そして敵の仕掛ける罠の兆候を見抜くという、百戦錬磨の「裏方としての観察眼」が極限まで培われていた。
「本来の鎧蜘蛛は待ち伏せ型の魔物だ。だが、この変異種はわざわざ獲物を沼地へ誘導している。赤黒い粘液状の糸は、強靭だが熱に弱いという性質がある。おそらく、この変異種は自身の甲殻で魔法を反射できるが、糸そのものは魔法の炎に触れると溶けてしまうため、火の魔法を使いにくい沼地を戦場に選んでいるんだ」
ギルドマスターが、信じられないものを見る目でヴァンを見上げた。
ただの力自慢の戦士だと思っていた男が、報告書のわずかな記述から、変異種の生態と弱点を完璧に論理立てて分析してみせたのだ。
「それに、この爪の形状」
ヴァンはスケッチに描かれた蜘蛛の四本の腕の先端を指す。
「樹上に登るために鋭く進化しているが、その分、平地での踏み込みや方向転換には向いていないはずだ。森の木々がある場所では圧倒的に有利だが、開けた場所や、足場の悪い場所では機動力が落ちる。……奴の誘い込む沼地は、奴自身にとっても動きを制限される両刃の剣だ」
「なるほど……。相手の土俵に乗りつつ、その弱点を突くのね」
セリアが感嘆の息を漏らす。
彼女の同化召喚は、どのような魂を宿すかによって、ヴァンの戦闘スタイルを全く別のものへと変化させることができる。ヴァンのこの冷徹な分析があれば、相手の能力を完全に封じ込める、最も相性の良い英霊や獣の魂を選択することが可能になるのだ。
「引き受けよう」
ヴァンは報告書から顔を上げ、ギルドマスターに向けて短く告げた。
「報酬は規定の三倍。加えて、奴の甲殻と糸は全て俺たちがもらう。武器や防具の素材として使えそうだからな」
「も、もちろん構わん! 都市の危機を救ってくれるのであれば、それくらい安いものだ!」
ギルドマスターが安堵のあまり泣き崩れそうになるのを尻目に、ヴァンとセリアは踵を返し、執務室を後にした。
一時間後。
静寂の森は、その名の通り不気味なほどの静けさに包まれていた。
鳥の鳴き声も、虫の羽音すらもしない。森の生態系の頂点に君臨した変異種の放つ強烈な威圧感が、全ての生物を沈黙させているのだ。
鬱蒼と生い茂る木々の隙間から、薄暗い陽光が差し込んでいる。
ヴァンは、スラムの鍛冶屋にありったけの金属を打ち直して作らせた、刃渡り二メートル近い巨大な斬馬刀を肩に担ぎ、音もなく腐葉土の上を歩いていた。
「ヴァン。周囲の魔力濃度が異常に高いわ。奴の張った見えない糸が、森中に張り巡らされている」
背後を歩くセリアが、探知魔法を展開しながら小声で警告する。
「ああ。だが、切る必要はない。わざと引っかかって、奴のテリトリーまで案内してもらう」
ヴァンの瞳には、恐怖も慢心もない。
あるのは、獲物の急所を正確に見極める狩人としての冷徹な計算と、隣を歩く相棒の術に対する絶対的な信頼だけだった。
「セリア。同化の準備を。今回は力任せの破壊や直線的な機動力じゃない。沼地の足場を無視して動き回り、かつ奴の立体的な軌道を完全に絡め取るような『変幻自在』の技を持つ魂が必要だ」
「分かっているわ。あなたの分析に、最も適した英霊を選定済みよ」
二人は森の奥深く、腐臭の漂う沼地へと向かって、静かに歩みを進めていった。
力押しだけではない、知略と異能が完全に噛み合った彼らの本当の戦いが、今まさに始まろうとしていた。




