第3話 傲慢な魔法陣と泥まみれの裏方
城塞都市から歩を進めること数時間。緑豊かだった景色は次第に姿を消し、赤茶けた岩肌がむき出しになる荒涼とした岩山地帯へと突入していた。
遮るもののない直射日光が、容赦なく大地を焼き付けている。乾燥した風が吹き抜けるたびに、細かい砂埃が舞い上がり、喉の奥をざらつかせた。大気には微かに硫黄の匂いが混じり、この一帯が凶暴な魔物の生息域であることを静かに警告している。
ヴァンの額からは滝のように汗が流れ落ちていた。背中には、討伐の証となる魔物の部位や魔石を収納するための巨大な空の麻袋と、解体用の各種道具がぎっしりと詰め込まれている。さらに、レオンたちのための予備の飲料水や、高価な魔力回復薬の入った木箱も加わり、その重量は平地を歩いていた時よりも遥かに重く感じられた。一歩踏み出すごとに、熱を帯びた硬い岩肌がブーツの底越しに足裏を打ち据える。
しかし、前方を歩く勇者パーティーの三人に、汗を流している者は一人もいない。
参謀役であるキースの足元には、淡い水色の光を放つ小さな精霊が常に付き従っていた。冷気の精霊だ。その精霊が放つ冷涼な空気が彼らの周囲だけを包み込み、灼熱の岩山にありながら、まるで避暑地の木陰を歩いているかのような快適な環境を作り出している。砂埃すらも微風の精霊が弾き飛ばすため、彼らの美しいローブが汚れることは一切ない。
不意に、ヴァンの鋭い観察眼が、右斜め前方の巨大な岩陰にわずかな違和感を捉えた。岩の表面の模様が、周囲の景色とほんの少しだけずれて揺らいだのだ。微かな土の匂いの変化。そして、岩が擦れ合うような低い摩擦音。
擬態だ。ヴァンは本能的に立ち止まり、背負った両手剣に手を伸ばそうとした。
だが、彼が警告を発するよりも早く、キースの肩に止まっていた目玉だけの使い魔が鋭い警戒音を鳴らした。
「右前方、距離三十。岩石蜥蜴の群れだ。数は五」
キースが冷徹な声で報告すると同時に、手元の杖を軽く地面に打ち付けた。瞬時にして、淡い金色の光を放つ正方形の魔力結界が展開され、レオン、リーゼ、キースの三人を完全に覆い隠す。ヴァンは結界の内側、その後方の端ギリギリの場所に無言で立ち止まり、重い荷物を背負ったまま姿勢を低くした。
「岩石蜥蜴か。硬いだけの鈍物ね」
リーゼが退屈そうにため息をつきながら、前に歩み出た。彼女が両手を胸の前で交差させ、短い呪文を口にすると、足元の空間が赤熱し、激しい炎の渦が巻き起こった。
召喚されたのは、三体の炎のサラマンダーだった。純粋な熱量そのもので構成されたような紅蓮の魔獣たちは、リーゼの指先が示す方向へと一斉に跳躍した。
次の瞬間、岩山を揺るがすような轟音と爆発が連続して響き渡った。
サラマンダーが放つ極大の火球が、擬態を解いて襲いかかってきた全長四メートルにも及ぶ岩石蜥蜴たちに直撃する。分厚い岩の鎧をまとった蜥蜴たちだが、精霊の放つ魔法の炎は物理的な防御を容易く貫通した。断末魔の叫びを上げる間もなく、岩石蜥蜴の巨体は岩の鎧ごとドロドロに溶かされ、黒焦げの炭と化していく。
圧倒的な破壊力。結界の中にいる限り、レオンたちは指一本動かすことなく、安全な場所から一方的な殺戮を行うことができる。これが召喚師の力であり、この世界において戦士が全く不要とされる最大の理由だった。どんなに剣を鍛えようと、あの高火力の広範囲魔法の前では、ただ燃え尽きるのを待つだけの無力な存在でしかない。
「ふう……少し魔力を使いすぎたわ」
リーゼが額にわずかに浮いた汗を拭いながら、不機嫌そうに舌打ちをした。その瞬間、彼女の視界の横から、スッと一本のガラス小瓶が差し出された。
キャップが外され、いつでも飲み込める状態になった中級の魔力回復薬。差し出したのはヴァンだった。
リーゼが魔力を消費するペース、呼吸の乱れ、そして魔力切れによる不快感を訴えるタイミング。その全てを、ヴァンはこれまでの雑用係としての経験から完璧に計算し、彼女が要求するよりも一拍早く準備を整えていたのだ。
リーゼは驚くこともなく、当然のようにその小瓶をひったくると、一気に中身を飲み干した。
「遅いわよ。喉が渇く前に用意しておきなさい」
理不尽な文句を投げつけられても、ヴァンは表情一つ変えずに空になった小瓶を受け取り、静かに後ろへと下がった。完璧な裏方仕事を果たしても、得られるのは罵声だけ。感謝の言葉など、この数年間で一度たりとも聞いたことはない。
「さて、掃除は終わったな。ヴァン、仕事の時間だぞ」
レオンが顎で、焼け焦げた岩石蜥蜴の残骸をしゃくった。
「一番大きな魔石は街のギルドの連中への土産にする。傷をつけずに取り出せよ」
結界が解かれ、焦げた肉と血、そして硫黄の匂いが混じり合った強烈な悪臭が周囲に立ち込めた。ヴァンは無言で荷袋を下ろし、腰から解体用の分厚いナイフを引き抜くと、まだ熱を帯びている魔物の死骸へと近づいていった。
ドロドロに溶けた岩の鎧の隙間から、半焼けになった分厚い皮膚をナイフで切り裂く。生温かい体液と内臓の匂いが顔を直撃するが、ヴァンは顔をしかめることすらしない。手首まで魔物の血と脂にまみれながら、正確な刃さばきで肉をかき分け、胸の奥底にある鈍く光る魔石を摘み出した。
背後からは、レオンたちの心底見下したような会話が聞こえてくる。
「本当に卑しい真似を平気でするものだ。あんな泥と血にまみれて、まるでハイエナだな」
「戦士なんて、魔物の死骸を漁るくらいしか使い道がないのよ。近寄らないで、臭いがうつるわ」
彼らの冷酷な嘲笑を背中に浴びながら、ヴァンは血まみれの手で魔石を布で拭い、麻袋の中へと丁寧に放り込んだ。
美しいローブをまとい、神々しい召喚獣を使役する英雄たち。その足元で、泥と血にまみれながら魔物の腹を割く戦士。この絶対的な階級差と理不尽こそが、ヴァンの生きる日常だった。
空の麻袋は少しずつ重みを増していく。ヴァンはただ黙々と、次の死骸へと解体のナイフを突き立てた。自分の両手がどれほど汚染されようとも、与えられた役目を完璧に遂行すること。それだけが、この狂った世界で彼が彼自身を保つための、唯一の戦い方だった。




