第2話 英雄たちの凱旋と日陰の歩み
夜明け前の森は、底冷えするような湿気に包まれていた。吐く息は白く濁り、頭上の枝葉から滴り落ちる朝露が、静寂の森に微かな音を響かせている。
ヴァンは誰に起こされるでもなく、空が白らむ前に目を覚ましていた。短い睡眠時間でも彼の肉体は完全に疲労を抜き去り、すぐさま活動を開始することができる。それが、彼が長年の過酷な訓練と実戦の底辺で培ってきた生存本能だった。
まずは焚き火の灰を片付け、新しい薪を組んで火を起こす。炎が安定するまでの間に、朝食の準備に取り掛かった。昨晩の残りの硬いパンを細かく砕き、干し肉と少しの香草とともに湯で煮込む。味気ない携帯食料だが、香草の匂いがわずかに泥臭さを打ち消してくれる。
巨大な天幕の解体は重労働だ。夜露をたっぷりと吸い込んだ厚手の帆布は、ただでさえ重いものがさらに倍の重量になっている。ヴァンは泥に足を取られないようしっかりと踏ん張りながら、太い支柱を引き抜き、天幕を丁寧に折りたたんでいく。少しでも皺が寄れば、あの巨大な背嚢には収まらない。指先は冷たさで赤く腫れ上がっているが、ヴァンの表情に痛みを訴える色は全くなかった。
日が完全に昇り、森に光が差し込む頃、ようやく勇者パーティーの面々が目を覚ました。キースが張った魔力結界のおかげで、彼らの周囲だけは快適な温度と湿度が保たれている。
「朝からかび臭い森の空気は最悪ね。早く街のふかふかなベッドで眠りたいわ」
リーゼが優雅な手つきで銀色の髪を梳かしながら、不満げに唇を尖らせた。ヴァンが差し出した朝食のスープが入った木椀を受け取ると、彼女は一口だけすすり、すぐに顔をしかめる。
「相変わらず貧乏くさい味。まあ、魔力を持たないただの人間に、気の利いた魔法薬膳など作れるはずもないけれど」
レオンもキースも無言でスープを腹に流し込み、すぐに出発の準備を急がせた。彼らにとって、この食事はただの栄養補給であり、味覚を楽しむものではない。そして、それを作ったヴァンに対する感謝の念など、最初から存在していなかった。
出発から数時間後、森を抜けた一行の目の前に、高い石壁に囲まれた城塞都市の輪郭が浮かび上がった。今回の遠征の拠点となる街だ。
街の正門に近づくにつれ、周囲の空気が変わっていくのを感じた。門番たちはレオンの姿を認めると、慌てて姿勢を正し、胸に手を当てて最敬礼の姿勢をとった。
「レオン様、お待ちしておりました。魔物討伐の遠征、誠にご苦労様でございます」
門番の威勢の良い声に、レオンはただ軽く顎を引いて応える。彼が門をくぐると、通りを歩いていた街の人々が一斉に足を止め、歓声を上げ始めた。
「見ろ、勇者レオン様だ」
「後ろにいるのは精霊召喚師のリーゼ様と、キース様じゃないか。なんてお美しい」
「これでこの街も安全だ。召喚師様万歳」
人々は拍手喝采を送り、色とりどりの花びらを道に撒き散らす。レオンは得意げな笑みを浮かべ、軽く手を振ってそれに応えていた。リーゼもキースも、この熱狂的な歓迎を当然のものとして受け入れている。
しかし、その華やかなパレードの後方、巨大な荷袋に埋もれるようにして歩くヴァンの姿に気づいた者たちの反応は、全く異なるものだった。
「おい、見ろよあの後ろのやつ。戦士だぜ」
「うわぁ、本当だ。あんな時代遅れの職業、まだ生きていたのか」
「勇者様たちの荷物持ちだろう。哀れなもんだな。魔力がないってだけで、あんな獣みたいな扱いを受けるなんて」
嘲笑、哀れみ、そして蔑み。街の人々の視線は、ヴァンという存在を同じ人間としてではなく、ただの使い魔か奴隷のように見ていた。母親に手を引かれた小さな子供がヴァンを指差すが、母親は慌ててその手を払い落とし、見ちゃいけません、無能がうつるわよと小声で叱りつけた。
ヴァンはそのすべてを耳にしながらも、視線を真っ直ぐ前に向けたまま、ただ一定の歩調で歩き続けた。背中の荷物の重みだけが、今の彼にとっての現実だった。彼らの言葉に反論する気も、怒りを感じることもない。戦士とはそういうものだ。この世界における絶対的な真理を、ヴァンは誰よりも深く理解していた。
街の中心部にある最高級の宿屋の前に到着すると、レオンは足を止め、振り返りざまに小さな革袋をヴァンに投げつけた。
「おいヴァン、俺たちはこれからの遠征に備えて休息をとる。お前はその金で足りない物資を補充しておけ。それと、武器屋に寄って結界用の魔石の予備も買っておくんだな。間違っても、お前のその鉄屑みたいな剣の研ぎ石なんかに金を使うなよ」
レオンはそう言い捨てると、ヴァンが返事をするのを待たずに宿屋の豪華な扉の中へと消えていった。リーゼとキースもそれに続く。宿屋の主人が揉み手をして彼らを迎え入れるのが見えた。
ヴァンは手の中の革袋の重さを確かめると、宿屋には入らず、そのまま街の喧騒の中へと歩き出した。向かう先は、市場と職人街だ。
市場は様々な香辛料の匂いと、肉を焼く煙、そして人々の怒号にも似た活気で満ちていた。ヴァンは巨大な背嚢を背負ったまま、人混みを縫うようにして目的の商店へと向かう。
乾物屋の店主は、ヴァンの姿を見るなりあからさまに嫌な顔をした。
「なんだ、戦士か。金は持ってるんだろうな。うちの保存食は召喚師様たちの口に合うように、特別な塩を使ってるんだ。貧乏人が冷やかしで買える値段じゃないぞ」
ヴァンは無言で革袋から銀貨を取り出し、木樽の上に並べた。
「干し肉を二十日分。それと、黒パンを可能な限り。水袋の予備も三つ頼む」
銀貨の輝きを見た店主の態度がわずかに和らいだが、それでも戦士に対する根本的な見下しは変わらない。店主が奥から持ってきた干し肉の束を、ヴァンは鋭い視線で素早く確認した。
「端の肉、少しカビが浮いている。別のものと交換してくれ」
ヴァンの低く落ち着いた声に、店主は舌打ちをした。
「ちっ、戦士の分際で目がいい野郎だ。わかったよ、こっちの新しいのと替えてやる」
粗悪品を押し付けられそうになっても、ヴァンは声を荒らげることはない。ただ必要な要求を伝え、確実に物資を調達するだけだ。
買い出しを終え、宿屋の裏手にある馬小屋に到着した頃には、日はすでに高く昇っていた。ヴァンに与えられた寝床は、藁が敷き詰められたこの薄暗い馬小屋の隅だ。
背嚢を下ろし、買ってきた物資を綺麗に整理して木箱に収めていく。全ての作業を終えると、ヴァンは藁の上に腰を下ろし、背中から両手剣を抜き放った。
宿屋の二階からは、レオンたちが楽しげに酒を飲み交わす笑い声が聞こえてくる。豪勢な食事が運ばれ、街の有力者たちが彼らを歓待しているのだろう。
ヴァンは手の中の鈍色の刃を見つめながら、使い古された布でゆっくりと刀身を拭き始めた。誰にも見られず、誰にも称賛されることのない日陰の歩み。それでも、ヴァンはこの剣を手放すことはなかった。
世界がどれほど戦士を不要だと叫ぼうとも、ただ実直に己の役割を果たし続ける。静かな馬小屋の中、剣を磨くかすかな摩擦音だけが、ヴァンの変わらぬ意志の強さを代弁していた。




