第20話 泥濘に咲く契約と空っぽの器の帰意
地下の廃教会を満たしていた土茶色の魔力の輝きが、静かにヴァンの皮膚の内側へと吸い込まれ、やがて完全に消失した。
ヴァンの胸に展開されていた幾何学的な魔法陣も、熱を持った刻印のようにわずかな赤みを残して皮膚と同化し、見えなくなる。しかし、その肉体の内側に宿った強大な質量の感覚は、いささかも失われてはいなかった。
ヴァンはゆっくりと息を吐き出しながら、自身の両手を開き、そして強く握りしめた。
今まで長年鍛え上げてきた筋肉の生々しい躍動感とは全く違う。骨の一本一本が強固な岩盤に置き換わり、皮膚の表面を削り出しの鋼鉄が覆っているような、圧倒的な密度と硬度。それが、先ほどまで彼自身の肉体であったはずの器に、隙間なく充満しているのだ。
折れていたはずの肋骨の痛みも、強酸に焼かれた皮膚の痛みも、同化している間は完全に消失していた。痛覚が遮断されているというだけではない。物理的に、彼の肉体が異界の獣の魂によって強引に補強され、最適化されている証拠だった。
ヴァンは無言のまま毛布から立ち上がり、部屋の隅にある崩れかけた石柱へと歩み寄った。かつて教会を支えていた大理石の太い柱の残骸だ。
彼は右手でその石柱の角を掴むと、静かに、そしてゆっくりと指先に力を込めた。
ゴリッ、という鈍い音とともに、大理石がまるで乾いた粘土のように容易く砕け散った。ヴァンがさらに力を込めると、粉々になった石の破片が指の間からサラサラとこぼれ落ちていく。魔力による破壊ではない。純粋な物理的握力のみで、硬質な石を粉砕したのだ。
「……信じられない。術の定着率、魔力の変換効率、その全てが完璧だわ。魔物の魂が暴走する気配すら全くないなんて」
背後から、セリアの震える声が聞こえた。
彼女は口元を両手で覆い、信じられないものを見るような目でヴァンの背中を見つめていた。今まで、彼女が術をかけた対象者は例外なく一瞬で肉体が悲鳴を上げ、血を吐いて倒れ伏した。獣の魂をコントロールすることなど不可能であり、ただ破壊をもたらすだけの欠陥魔法。それが彼女の術の絶対的な真理だったはずなのだ。
「あなたのその肉体は、ただ頑丈なだけじゃない。精神の奥底にある深い空洞が、魔物の魂の凶暴性を完全に飲み込み、鎮めているのよ。まるで、この同化召喚術を受け入れるために設えられた、世界で唯一の完璧な器みたいに」
セリアの言葉に、ヴァンは砕けた石の粉を払い落とし、静かに振り返った。
「悪くない力だ。これなら、どんなに重い大剣を振るうよりも確実に、そして素早く敵を粉砕できる」
ヴァンのその淡々とした評価を聞き、セリアは再びポロポロと涙をこぼした。
「あなたは……怖くないの? 自分の身体の中に、自分以外の恐ろしい化け物の魂が蠢いているのよ。普通の人間なら、その感覚だけで発狂してしまうわ」
「怖いとは思わない」
ヴァンは真っ直ぐにセリアの紫色の瞳を見つめ返し、事実だけを口にした。
「俺は今日、長年命を預けてきた両手剣を奪われた。勇者たちの荷物を運び、彼らを護るという役割も失った。俺の中にはもう、何も残っていなかったんだ。だが今、お前の術が俺の身体を重く満たしている。武器がないなら、この身体そのものを武器にすればいい。ただそれだけのことだ」
ヴァンが歩み寄り、セリアの目の前で立ち止まる。
「セリア。もう一度、術を解いてくれ」
ヴァンの言葉に、セリアはハッとして慌てて涙を拭い、彼に右手を向けた。短い解除の呪文が紡がれると、ヴァンの身体から淡い光が抜け出し、空間に溶けて消えていった。
直後、強烈な疲労感と、先ほどまでの怪我の痛みが一気にヴァンの肉体へと戻ってきた。膝がガクンと折れそうになるが、ヴァンは歯を食いしばって立ち続ける。同化による身体能力の底上げは絶対的だが、術を解いた後の反動や、元の肉体のダメージが消えるわけではないのだ。
ヴァンは荒い息を吐きながら、再び毛布の上へと重く腰を下ろした。
「ヴァン、大丈夫? やっぱりまだ傷が……」
「問題ない。この程度の疲労、あの勇者パーティーでの理不尽な行軍に比べればどうということはない」
ヴァンは壁に背を預け、魔石ストーブの炎を見つめながら静かに口を開いた。
「セリア。お前の術は、対象である人間の肉体がなければ成立しない。そして俺は、振るうべき武器と、仕えるべき主を失った空っぽの戦士だ。この世界は、俺たち二人を無用の長物として路地裏に捨てた」
ヴァンの言葉に、セリアは黙って頷いた。彼女の表情からは、先ほどまでの孤独な怯えが消え、代わりに静かな熱を帯びた光が宿り始めていた。
「なら、俺たちで歯車を合わせればいい」
ヴァンは視線をストーブの炎から、セリアへと移した。
「俺の身体を、お前の術を注ぎ込むための器として使え。俺がお前の召喚獣の魂を宿し、お前のために戦う。その代わり、お前は俺の後ろに立ち、俺に戦うための力を与え続けてくれ」
それは、魔法を持たない最底辺の戦士からの、異端の召喚師に対する絶対的な主従の誓いであり、同時に、互いの欠落を埋め合わせるための対等な契約の申し出だった。
セリアはヴァンのそのまっすぐな瞳を見つめ返した。
これまで、彼女を理解しようとする人間は誰もいなかった。気味が悪いと石を投げられ、無能だと嘲笑されてきた。しかし今、目の前にいる泥だらけの戦士は、彼女の呪われた術を真正面から受け止め、さらにその術を自らの存在意義として必要としてくれている。
セリアはゆっくりと、ヴァンの前で片膝をついた。高貴な召喚師が、戦士の前で身を屈めるなど、この世界においてはあり得ない光景だ。しかし、彼女の動作には一片の迷いもなかった。
「私は、あなたを荷物持ちや盾として扱うつもりはないわ。あなたは、私の術を完成させてくれた、世界でただ一人の完璧な器。……私の、たった一人の相棒よ」
セリアはそう言うと、白く細い右手を、ヴァンの無骨で傷だらけの左手へとそっと重ねた。
氷のように冷たかった彼女の手は、今は魔石ストーブの熱を帯びて微かに温かい。ヴァンの分厚い手もまた、その温もりを静かに握り返した。
「誓うわ、ヴァン。私が持つ全ての古代召喚術の知識を懸けて、あなたに最強の力を与える。この理不尽な世界が、あなたから奪ったもの全てを取り戻せるほどの、圧倒的な力を」
「ああ。頼む」
短い、しかし絶対的な信頼の言葉が交わされた。
外の世界では、相変わらず冷たい氷雨がスラムの泥濘を打ち据え、人々は理不尽な魔法の力に怯え、あるいは驕り高ぶって生きているだろう。勇者レオンやリーゼたちは、温かい宿屋のベッドで己の虚栄心に浸っているに違いない。
しかし、光の届かないこの地下の廃教会で。
社会から完全に不要とされ、全てを失った孤独な二つの魂は、互いの存在に唯一の価値を見出し、静かに、そして強固に結びついた。
魔力を持たない戦士と、器を持たない同化召喚師。
後に世界中を震撼させ、理不尽な世界の法則を根底から覆すことになる規格外の二人の歩みは、この泥にまみれた地下の片隅から、今まさに始まろうとしていた。




