第19話 呪われた術と底なしの器
地下の廃教会に、魔石ストーブの微かな爆ぜる音だけが規則正しく響いていた。
天井のひび割れから滴り落ちる水滴が、冷たい石の床を叩く微かな反響音。スラムの路地裏で降り続く雨の冷たさは、この地下空間までは届かない。薬草の青臭い匂いが充満する中、セリアは自身の膝の上で両手を固く握りしめ、毛布の上に座るヴァンをじっと見つめていた。
「……私の術を、あなたに試させてくれないかしら」
長い沈黙を破り、セリアの薄い唇から紡ぎ出されたのは、ひどく恐る恐るとした、しかし確かな熱を帯びた提案だった。
ヴァンは表情を変えることなく、ただ静かに彼女の紫色の瞳を見返した。
「さっきも言った通り、私の『同化召喚』は対象者の肉体を内側から破壊してしまう呪われた術よ。魔物の強大な魂と魔力を無理やり人間の身体に押し込むのだから、当然の拒絶反応が起きる。全身の筋肉繊維が引き裂かれ、血が沸騰するような激痛に襲われるわ。最悪の場合、精神がそれに耐えきれずにショック死する。……今まで、私の術に耐えられた人間は一人もいない」
セリアの声はわずかに震えていた。己の持つ術が、他者を傷つけ、壊してしまう欠陥品であるという事実。それを自らの口で語ることは、彼女にとって古傷を刃物で抉るような行為だった。
「だが、あなたのその肉体は違う。魔力を持たない代わりに、極限まで物理的な強靭さを追求し、数え切れないほどの死線を越えてきた戦士の身体。そして何より、あなたの中にあるその底知れぬ虚無感。今のあなたなら、あるいは召喚獣の魂の重圧を受け止め、自らのものとして押さえ込むことができるかもしれない」
セリアの言葉には、狂気にも似た一縷の望みが込められていた。世界中から無能と蔑まれ、迫害されてきた異端の召喚師が見出した、たった一つの希望の光。
ヴァンは、自分の分厚く無骨な両手を見下ろした。
長年握り続けてきた両手剣はすでにない。勇者パーティーの裏方として、実直に己の役割を果たし続けてきた日々の証である無数の傷跡だけが、無意味に刻み込まれている。
剣を奪われ、主を失い、帰るべき場所も目的も失った空っぽの器。
もしこの肉体が彼女の術に耐えきれず、激痛の中で破裂して死んだとしても、それは路地裏の泥水の中で野良犬に食われて死ぬことと何ら変わりはない。むしろ、この無用の長物と化した肉体が、誰かの術を完成させるための実験台として最後に意味を持つのなら、戦士としての最後の役割としては十分すぎるほどだ。
「構わない」
ヴァンの声は、ひどく淡々としていた。死の恐怖も、未知の魔法に対する警戒心も全くない。ただ、極めて合理的な物理的事実として、自らの肉体を差し出すことを承諾したのだ。
「俺にはもう、守るべきものも、帰る場所もない。ただ頑丈なだけのこの空っぽの身体がお前の術の役に立つというなら、好きに使えばいい」
その静かな承諾の言葉に、セリアは大きく息を飲み込んだ。そして、決意を固めたようにゆっくりと立ち上がり、ヴァンの目の前へと歩み寄った。
「……感謝するわ。もしあなたが限界を超えそうになったら、すぐに私が術を解除する。だから、少しでも痛みを感じたら、迷わず声を上げて」
セリアはそう言うと、真っ直ぐに伸ばした右手の人差し指を、ヴァンの分厚い胸板、心臓の真上の位置へとそっと触れさせた。彼女の冷たい指先から、微弱な魔力の波動がヴァンの皮膚へと伝わってくる。
「大地の底より這い出でて、鋼の皮膚と岩の骨格を持つ不動の獣よ」
セリアの詠唱が、地下の廃教会に厳かに響き渡る。
彼女の指先を起点として、ヴァンの胸の表面に淡い茶褐色の幾何学的な魔法陣が円を描くように展開されていく。複雑な文様が皮膚の上に直接焼き付き、部屋の空気が急激に重く、乾燥したものへと変化し始めた。
「我が声に応え、この者を強固なる器とし、その絶対的な硬度と怪力を貸し与えたまえ。『同化召喚・鉄甲装の土熊』」
詠唱が完了した瞬間、眩い土茶色の光が魔法陣から放たれ、強大な魔物の魂そのものが、ヴァンの胸の中央から肉体の内部へと直接叩き込まれた。
ドクンッ、とヴァンの心臓が、今までにないほどの異常な質量を伴って大きく跳ねた。
異物の侵入。それは、刃物で肉を切り裂かれる物理的なダメージとは全く次元の異なる、生命の根本を揺るがすような恐ろしい感覚だった。ヴァンの全身の血管が異様に隆起し、皮膚のすぐ下で魔力の奔流が荒れ狂うのが目に見えてわかる。筋肉の繊維が限界まで引き伸ばされ、骨の髄から高熱が吹き出した。
「くっ……」
ヴァンの口から、微かな呻き声が漏れた。全身の筋肉が強制的に収縮し、折れていた肋骨がさらに悲鳴を上げる。常人であれば、この時点で全身の感覚器が完全に焼き切れ、発狂して泡を吹いて倒れているほどの圧倒的な苦痛だ。
「ヴァン。駄目、やっぱり無理よ。術を解くわ」
ヴァンの全身から噴き出す異常な熱と、浮き出た血管の恐ろしさに、セリアの顔から一瞬にして血の気が引いた。これ以上術を継続すれば、彼の肉体が内側から破裂してしまう。彼女が慌てて魔法陣から手を離そうとした、その時だった。
ガシィッ。
ヴァンの大きく分厚い手が、セリアの細い手首を力強く掴み、そのまま自らの胸元へと押し留めた。
「……続けるんだ、セリア」
ヴァンの声は、低く、しかし全くブレてはいなかった。
セリアは信じられないものを見るように目を見開いた。ヴァンの額からは滝のような脂汗が流れ落ち、全身の筋肉は悲鳴を上げて軋んでいる。間違いなく、彼の肉体は致死レベルの激痛に見舞われているはずだ。
しかし、ヴァンのその双眸には、痛みに悶えるような苦痛の色も、死に対する恐怖も、一切浮かんでいなかったのだ。
痛覚の遮断。極限まで鍛え抜かれた戦士としての肉体が、脳への痛みの信号を完全に切り離し、ただ「己の内に強大なエネルギーが注ぎ込まれている」という物理的な状況だけを冷静に処理している。そして、空っぽになっていた彼の魂の器は、その暴れ狂う土熊の魂を、底なしの深淵へ突き落とすように静かに飲み込み、そして完全に押さえ込んでしまった。
ヴァンの呼吸が、荒々しいものから、深く、静かなものへと変わっていく。
隆起していた血管がゆっくりと元に戻り、全身から立ち上っていた高熱の蒸気が収まっていく。代わりに彼から放たれ始めたのは、ただの人間には到底出し得ない、大地の奥底から湧き上がるような圧倒的な質量と力強さだった。
「嘘……痛くないの? 肉体が、あれほどの魔物の魂の重圧に、完全に耐えきっている……?」
セリアの震える声に、ヴァンは静かに自らの両手を握り込み、その感触を確かめた。
失われた両手剣の重さなど比にならない。己の肉体そのものが、どんな鋼の鎧よりも硬く、どんな巨岩をも粉砕できるほどの圧倒的な密度を持っていることが、はっきりと理解できた。
「痛くない。ただ……身体の奥底に、確かな重みがある。悪くない感覚だ」
ヴァンの静かな言葉に、セリアの紫色の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
彼女が物心ついた時から世界中から否定され、誰一人として受け入れてくれなかった呪われた術。それが今、目の前の泥にまみれた戦士の肉体によって、初めて完璧な形で成立したのだ。
光の届かない地下の廃教会で、異端の召喚師の涙が、冷たい石の床に温かなシミを作っていく。それは、世界から不要とされた二つの魂が、初めてお互いの存在意義を証明し合った、静かで、しかし絶対的な奇跡の瞬間だった。




