第18話 地下の廃教会と欠陥の召喚術
ゆっくりと浮上してくる意識の中で、ヴァンが最初に感じ取ったのは、鼻腔をくすぐる青臭い薬草の匂いだった。
重い土くれが乗っているかのように開かないまぶたを、時間をかけてわずかに押し上げる。視界に広がったのは、雨の降る灰色の空でも、冷たい路地裏の煉瓦でもなく、うっすらと苔の生えた石造りのアーチ状の天井だった。部屋の片隅に置かれた魔石ストーブから、オレンジ色の柔らかな光が放射され、壁に揺らめく影を作っている。地下特有のひんやりとした湿気はあるものの、不快な寒さは全くない。
ヴァンは静かに呼吸を試し、自分の肉体の状態を物理的に確認した。
折れた肋骨の周囲には、硬い添え木のようなものが当てられ、清潔な麻布でしっかりと固定されている。強酸の瘴気で爛れていた左腕と背中には、冷やりとした薬草のペーストが分厚く塗られ、痛みが驚くほど引いていた。魔法による一瞬の治癒ではない。布を洗い、薬をすり潰し、時間をかけて人の手で行われた泥臭くも確実な物理的治療の痕跡だった。
「……気がついたのね」
静かな、鈴を転がすような声が地下の空間に響いた。
ヴァンが首だけを動かして声の方向へ視線を向けると、ストーブの火のそばで小さな鍋をかき混ぜていた少女がこちらを振り返ったところだった。透き通るような銀色の髪に、深い紫色の瞳。スラムの路地裏で、不良召喚師たちに囲まれていたあの少女だ。
ヴァンは無言のまま、軋む身体に鞭を打ってゆっくりと上体を起こした。寝床として敷かれていた分厚い毛布から抜け出し、壁を背にして座り直す。警戒の態勢というよりは、現状を正確に把握するための戦士としての最低限の動作だった。
「無理をして動かない方がいいわ。傷口は洗って薬草を塗ったけれど、折れた骨がくっつくまでは時間がかかる」
少女はストーブから離れると、木の椀に温かな液体を注ぎ、ヴァンの手元へと差し出した。
「薬効のあるお茶よ。体温を上げる効果があるわ」
ヴァンは椀を受け取ると、ためらうことなく口をつけた。熱い液体が食道を通って空っぽの胃の腑へと落ちていく感覚が、失われていた肉体の輪郭を少しずつ明確にしていく。苦味の強いお茶だが、今のヴァンにとっては生命をつなぐための貴重な熱量だった。
「なぜ、俺を助けた」
椀を空にしたヴァンは、低くかすれた声で尋ねた。感情の起伏はない。ただ純粋な疑問としての問いかけだった。
「路地裏で、あなたが彼らを追い払ってくれたから。その恩返しをしただけよ」
少女は自身のクラシカルなローブの裾をわずかに整えながら、淡々と答えた。
「俺は何もしていない。ただそこを歩いていただけだ」
「それでも、結果的に私は救われたわ。それに、これほどの怪我を負ってなお倒れなかったあなたの肉体の構造に、少し興味があったの。……私の名前はセリア。セリア・ヴァンルージュ。この地下の廃教会を根城にしている、しがない召喚師よ」
セリアと名乗った少女は、自嘲気味に薄く笑った。
「召喚師、か。ならなぜ、魔法で傷を治さなかった。あの男たちの前でも、召喚獣を出さずに立ち尽くしていた」
ヴァンの静かな指摘に、セリアの紫色の瞳がわずかに伏せられた。ストーブの炎が爆ぜる微かな音だけが、二人の間に流れる。やがて、セリアはぽつりと、しかしはっきりとした口調で自らの真実を語り始めた。
「私は、治癒の精霊も、炎を吐く魔獣も呼び出すことはできない。私の術は『同化召喚』。対象となる人間の肉体に、異界の存在や召喚獣の魂を直接憑依させ、その身体能力と魔力を爆発的に引き上げるという、失われた古代の召喚術よ」
その言葉の響きに、ヴァンは微かに眉を動かした。召喚獣を外に出現させるのではなく、人間に宿す。それは、召喚獣の力を絶対的なものとして崇拝し、安全な場所から使役することこそが高貴とされるこの世界の常識から、完全に逸脱した異端の術理だった。
「凄い術だと思われるかもしれないけれど、現実には完全な欠陥品なの」
セリアは自身の細い腕をさすりながら、悲痛な響きを帯びた声で続けた。
「召喚獣の強大な魂と膨大な魔力は、並の人間にとって劇薬どころか猛毒よ。術をかけられた人間は、一瞬にして自らの筋肉の限界を超えた力を引き出してしまう。結果、どうなると思う? 血管は破裂し、筋肉は千切れ、骨は砕け散るわ。そして肉体の痛みに耐えきれなくなった精神は完全に崩壊し、狂い死にする。……対象者を必ず殺してしまう、使い道のない呪いの術。それが、私が世界から無能の烙印を押された理由」
同化召喚術を安全に機能させるための絶対条件。
それは、強大な魂の負荷に耐えうる、規格外に頑丈で、限界まで鍛え抜かれた肉体。そして、どれほどの肉体的な苦痛にも精神を揺るがすことのない、狂気にも似た忍耐力を持つ強固な「器」の存在だった。
「私には、力を注ぎ込むための頑丈な器が必要だった。でも、この世界は安全な魔法ばかりを追求し、自らの肉体を鍛えることなど野蛮で時代遅れだと切り捨てた。前衛で戦う戦士たちは皆、無能として迫害され、姿を消していったわ」
セリアの言葉が、地下の静寂に吸い込まれていく。
彼女の抱える絶望の正体が、ヴァンには痛いほどに理解できた。
セリアは、鞘を持たない抜き身の刃なのだ。どれほど強力な力を持っていようとも、それを受け止め、振るうことのできる存在がいなければ、ただ自分と周囲を傷つけるだけの不要な鉄屑でしかない。
「……なるほどな。主のいない剣と、同じか」
ヴァンは、薬を塗られた自身の分厚い両手を見つめながら、ぽつりと呟いた。
勇者パーティーの裏方として、実直に己の役割を果たし続けてきた。どんなに重い荷物を背負おうとも、どんなに理不尽な扱いを受けようとも、いつか本当の仲間として認められると信じて、ただ肉体だけを鍛え上げてきた。しかし、その結果が、泥にまみれて全てを奪われ、路地裏に捨てられるという虚無だった。
振るうべき剣を失い、守るべき主を失い、己の存在意義という名の鞘を失った空っぽの器。それが今の自分だ。
セリアは、ヴァンのその虚無の底を覗き込むように、真っ直ぐに彼を見つめた。
「あなたも、不要とされたのね。その無数の傷跡と、鍛え上げられた肉体が、誰の目にも留まらないまま、路地裏で死にかけていた」
「ああ。俺は、戦士だからな」
ヴァンの短い肯定には、一切の感情が乗っていなかった。怒りも、悲しみも、すでに彼の中には存在しない。ただ、物理的な事実としてそれを受け入れているだけだ。
地下の廃教会に、再び静寂が降りた。しかし、それは先ほどまでの冷たい沈黙ではない。
社会という巨大なシステムから完全に不要とされ、弾き出された異端の召喚師と、空っぽの戦士。相反する力を持つ二つの孤独な魂が、お互いの内にある決定的な欠落を通じて、奇妙な共鳴を始めているのを感じていた。




