第17話 泥濘に倒れる巨躯と異端の救済
雨音だけが支配するスラムの路地裏で、不良召喚師たちは完全に腰を抜かしていた。
彼らが使役していたはずの腐食の双頭犬は、魔力を持たないただの半裸の男が放つ異常なまでの死の気配に当てられ、恐怖のあまり完全に術の制御を離れていた。二つの頭部がキャンキャンと情けない悲鳴を上げると、自らの意思で魔力の繋がりを断ち切り、緑色の毒炎とともにシュウと音を立てて空間に溶け込むように消滅してしまったのだ。
「ひ、ひぃっ……化け物め。魔力もないくせに、俺の召喚獣を消しやがった」
リーダーの男が泥水の中に尻餅をついたまま、後ずさる。彼の目には、血と泥にまみれてふらつくヴァンが、得体の知れない呪いを撒き散らす悪鬼のように見えていた。
「に、逃げるぞ。こんなイカれた奴に関わってたら、魂まで腐っちまう」
男たちは這うようにして立ち上がると、セリアを壁際に追い詰めていたことなど完全に忘れ去り、転がるようにして路地の奥へと逃げ去っていった。彼らの無様な足音が雨音に掻き消されるまで、そう時間はかからなかった。
残されたのは、冷たい雨に打たれるセリアと、虚無の瞳で立ち尽くすヴァンの二人だけだった。
脅威が完全に去ったことを、ヴァンの極限まで研ぎ澄まされた生存本能が察知した。その瞬間、彼の肉体を辛うじて動かしていた最後の一糸が、プツリと音を立てて切れた。
ヴァンの巨大な身体が、まるで根元から切り倒された巨木のように前方へと傾く。受け身をとることもなく、顔面から泥濘の地面へと激しく倒れ込んだ。ズシャァッという重い音が響き、周囲の泥水が大きく跳ね上がる。
「……っ」
セリアは壁際から駆け寄り、泥に沈んだヴァンの傍らに膝をついた。
彼女の白く細い手が、ヴァンの屈強な肩に触れる。氷のように冷たかった。仰向けにひっくり返すと、その肉体に刻まれた惨状が彼女の紫色の瞳に生々しく飛び込んできた。
実用的な筋肉が隙間なく鎧のように張り巡らされた分厚い胸板。しかし、その表面は無数の切り傷と打撲痕で覆われ、左腕から背中にかけては、強力な魔物の強酸を浴びたと思われる酷い火傷が赤黒く化膿していた。そして何より、限界を超えた疲労と栄養失調によって、彼の頬はこけ、呼吸は今にも止まりそうなほどに浅い。
「なんて酷い傷……。いえ、それよりもこの筋肉の付き方。あなたは、戦士なのね」
セリアの唇から、震えるような囁きが漏れた。
召喚術が全てを支配し、誰もが安全な後方から魔法を操るこの時代において、これほどまでに己の肉体のみを極限まで鍛え上げている人間など、戦士以外に存在しない。世界中から時代遅れの無能と蔑まれ、迫害されている職業。
それでありながら、彼は先ほど、明確な殺意を持った魔物の前で一歩も引かず、その存在感だけで退けてみせた。彼が意図して自分を助けたわけではないことは、その空っぽの瞳を見ればセリアにも理解できた。しかし、結果として彼女はこの見ず知らずの戦士に窮地を救われたのだ。
「このままここで放っておけば、あなたは確実に死ぬわ。……私に何の見返りも期待できない、薄汚れたスラムのゴミとして」
セリアは冷たい雨粒を瞬きで弾き飛ばし、静かに決意を固めた。
彼女の術「同化召喚」は、召喚獣を対象者の肉体に憑依させ、その力を引き出すという失われた古代の術だ。しかし、常人の肉体では魔物の強大な魂に耐えきれず、瞬く間に精神が崩壊し肉体が破裂してしまう。そのため、術を行使する「器」が存在しないセリアは、この世界で完全なる無能として孤独な人生を歩んできた。
だが、目の前に倒れているこの男は違う。
強酸を浴びても、骨が折れていても、痛みすら感じていないかのように歩き続けた異常なまでの痛覚の遮断。そして、何よりあの底知れぬ虚無を抱えた精神。どんな強大な召喚獣の魂であっても、底なし沼のように飲み込んでしまえるのではないかと思わせる、特異な器の気配が彼にはあった。
「あなたのその空っぽの器に、私の術が届くかどうか。試させてもらうわ」
セリアは深く息を吸い込み、雨の降る空に向けて右手をかざした。
「大地を割り、大木を容易くへし折る剛健なる山の主よ。我が身を一時の器とし、その怪力を貸し与えたまえ」
セリアの詠唱に応え、彼女の足元の泥水が円形に吹き飛んだ。淡い土茶色の魔法陣が虚空に展開され、そこから巨大な幻影の熊の頭部が咆哮を上げて飛び出してくる。通常の召喚であれば、そのまま熊が実体化して現れる。しかしセリアの同化召喚は違う。
幻影の熊はセリアの頭上で反転すると、そのまま彼女の華奢な肉体へと真っ直ぐに飛び込み、音もなく融合した。
ドクン、とセリアの心臓が大きく脈打つ。
彼女の細い腕や脚の見た目は全く変わらない。しかし、その内側には通常の人間を遥かに凌駕する圧倒的な筋力が満ち溢れていた。低級の獣の魂を自身に同化させる、セリアの最も基礎的な術だ。
セリアは泥の中に両腕を差し入れると、百キロ近い体重があるヴァンの巨体を、羽毛のクッションでも持ち上げるかのように軽々と抱え上げた。
「少しの間、辛抱してちょうだい」
セリアはヴァンを抱いたまま、迷いのない足取りでスラムのさらに奥深くへと歩き出した。
彼女が向かったのは、都市の最下層からさらに地下へと続く、忘れ去られた古代遺跡の入り口だった。崩れかけた石階段を下り、カビと苔に覆われた冷たい通路を抜けると、かつて礼拝堂として使われていたと思われる、ドーム状の広い空間が現れる。ここが、社会から追放された異端の召喚師であるセリアの、誰にも知られていない隠れ家だった。
天井のわずかな隙間から雨水がポタポタと滴り落ちているが、路地裏よりは遥かに暖かく、乾いている。
セリアは部屋の中央に置かれた古い毛布の上に、ヴァンを静かに横たえた。自身の同化を解くと、反動で軽い目眩が襲ってきたが、それを頭を振ってやり過ごす。
すぐさま部屋の隅にある小さな魔石ストーブに火を入れ、鍋で湯を沸かし始めた。
治癒の精霊を呼び出せる召喚師であれば、魔法を一回唱えるだけで傷は塞がるだろう。しかし、対象に魂を宿すことしかできないセリアには、治癒の魔法は使えない。彼女が彼に施せるのは、布と湯を使った物理的な洗浄と、スラムの薬屋で手に入れた安価な薬草を塗り込むという、泥臭い手当てだけだった。
沸き立った湯に清潔な布を浸し、固く絞る。そして、ヴァンの身体にこびりついた冷たい泥と、化膿した傷口の汚れを、時間をかけて丁寧に拭き取っていく。
泥の下から現れたのは、無数の傷跡が物語る、凄まじいまでの死闘の歴史だった。
彼はどれほどの理不尽と暴力に耐え、どれほどの絶望をその背中に背負いながら、この無情な世界を生き抜いてきたのだろうか。
「私と同じ……いえ、私よりもずっと深く、この世界に拒絶されてきたのね」
セリアは、熱を持ち始めたヴァンの額に濡れ手拭いを乗せながら、彼の眠る横顔を静かに見つめた。
孤独な同化召喚師と、全てを失った戦士。
世界から不要とされた二つの魂が、光の届かない地下の廃教会で、静かに寄り添い合う夜の始まりだった。




