第16話 泥濘の底での邂逅と虚無の足音
スラムの狭く入り組んだ路地を、冷たい雨が執拗に叩き続けていた。
空を覆う灰色の雲は一向に晴れる気配を見せず、トタン屋根を打つ不規則な雨音が、都市の最下層に生きる者たちの重い溜め息のように響いている。舗装されていない地面は完全な泥沼と化し、悪臭を放つ生活排水と混ざり合って、歩くたびにズブズブと粘着質な音を立てた。
ヴァンは、あてもなくその泥濘の中を引きずるように歩いていた。
薄汚れた麻の内着一枚で雨に打たれ続け、体温はすでに危険な水域まで低下している。左腕と背中の傷口は雨水を吸って白くふやけ、もはや痛みすら感じない。焦点の定まらない虚無の瞳は、目の前の景色を物理的な障害物としてしか認識しておらず、そこには生きる意志も、何かを成し遂げようとする目的も完全に欠落していた。
ただ、空っぽになった肉体が、惰性だけで前へと進んでいる。
ふと、前方から下品な笑い声と、大気が焦げるような微かな魔力の匂いが漂ってきた。
ヴァンが足を踏み入れたのは、スラムの中でもさらに奥まった、廃材の山に囲まれた行き止まりの広場だった。そこでは、粗末な革鎧の上に無理やりローブを羽織った三人の若い男たちが、一人の少女を壁際へと追い詰めていた。
男たちの態度はひどく尊大だった。彼らは正規のギルドには入れない程度の微弱な魔力しか持たない不良召喚師たちだが、魔力を持たない者が大半を占めるこのスラムにおいては、絶対的な強者として振る舞うことができた。
そして、彼らに囲まれている少女の姿は、この掃き溜めのようなスラムにはひどく不釣り合いなものだった。
色素の薄い、透き通るような銀髪が雨に濡れて背中に張り付いている。露出の少ないクラシカルでゆったりとしたローブは、上質な布地で作られていることがひと目でわかった。どこか浮世離れした神秘的な雰囲気を漂わせる彼女の深い紫色の瞳は、荒くれ者たちに囲まれているというのに、恐怖の色を一切浮かべていない。ただ、氷のように冷たく、そして深い孤独を湛えて彼らを見据えていた。
「おいおい、お高くとまりやがって。聞いてるんだぜ、お前が『同化召喚師』なんていう、歴史の教科書にしか載ってないようなカビの生えた無能職だってことはよ」
不良のリーダー格である男が、少女の顔を覗き込んでニヤニヤと笑った。
「召喚獣を対象に憑依させる術だっけか? でもよ、今の時代、前衛で武器を振り回す馬鹿な戦士なんて一人もいねえんだ。憑依させる相手がいねえ召喚術なんて、犬のクソ以下の役にも立たねえよな」
男の言葉に、取り巻きの二人が下品な笑い声を上げる。
召喚術が全てを支配するこの世界において、戦士は無能の代名詞だ。そして、その戦士に強大な力を付与することを前提とした同化召喚術もまた、対象が存在しないがゆえに、完全なる無用の長物として社会から異端扱いされていた。
少女、セリア・ヴァンルージュは、男たちの嘲笑を浴びながらも、薄い唇を固く結んだまま一言も発しなかった。彼女にとって、この程度の侮蔑は日常茶飯事だった。自分の持つ古代の術が誰にも理解されず、ただ奇異の目で見られるだけの孤独な人生。それに反論する気力すら、彼女はすでに失っていた。
「黙ってねえで何か言えよ。それとも、俺たちの立派な召喚獣を見て、恐怖で声も出ねえか?」
リーダーの男が懐から安っぽい魔石を取り出し、呪文を早口で詠唱した。
「出でよ、血肉を貪る腐食の双頭犬」
男の足元の泥濘が不自然に赤黒く変色し、ボコボコと沸騰するように泡立った。次の瞬間、泥を吹き飛ばして魔法陣が展開され、禍々しい緑色の炎をまとった巨大な猟犬が姿を現した。
召喚獣の出現を伴う派手な演出。二つの頭部を持つその猟犬は、体毛の代わりに緑色の毒炎を燃え上がらせ、鋭い牙からは地面の泥をジュウジュウと溶かす強酸の涎を垂らしている。周囲の空気が一気に有毒な熱を帯び、雨粒が触れた端から蒸発して緑色の煙を上げた。
「どうだ、すげえだろう。俺の双頭犬はスラムのゴミを食わせて育てた特別製だ。お前みたいな無能な女、こいつの餌にしてやってもいいんだぜ」
男が脅しをかけると、双頭犬がセリアに向かって二つの顎を大きく開き、威嚇の咆哮を上げた。緑色の炎が熱波となってセリアの銀髪を揺らす。
それでも、セリアの紫色の瞳に動揺は走らない。ただ、冷たく己の運命を傍観しているかのようだった。
その時だった。
ズチャ、ズチャという、規則正しく、しかしひどく重い足音が雨音に混じって広場に響き渡った。
不良たちと双頭犬が、一斉に音の方向へと顔を向ける。
そこには、血と泥にまみれ、半裸同然の姿をしたヴァンが歩いていた。
彼は不良たちの争いを止めるつもりなど微塵もなかった。ただ、自分が前に進むための路地の空間を、たまたま彼らが塞いでいたというだけだ。ヴァンの焦点の定まらない瞳には、不良の姿も、毒炎を放つ恐ろしい双頭犬の姿も映っていない。物理的な障害物としてのみ認識し、そのままの等速で歩みを進めている。
「な、なんだこの薄汚いホームレスは。俺の双頭犬の前に立って、死にてえのか」
リーダーの男が苛立ち交じりに怒鳴りつけた。
しかし、ヴァンは止まらない。歩くたびに、彼の傷口から赤黒い血が泥水へと落ちる。
その瞬間、双頭犬の二つの頭部が、ビクンと不自然に跳ね上がった。
犬の嗅覚と野生の本能は、男たちよりもはるかに正確に、目の前に現れた男の異常性を感じ取っていた。魔力は一切感じない。しかし、その泥と血にまみれた肉体から漏れ出ているのは、数え切れないほどの死線を越え、強大な魔物をただ物理的な暴力のみで解体してきた、圧倒的で純粋な「殺戮の残滓」だった。
さらに、今のヴァンは生きる意志すらも捨て去り、完全なる虚無を纏っている。底知れぬ漆黒の穴のような存在感。それは、浅ましい魔力で生み出された低級な召喚獣にとって、触れれば魂ごと飲み込まれる絶対的な深淵に他ならなかった。
「おい、どうした。そいつの首を噛み砕け」
男が命令を下すが、双頭犬は一歩後ずさった。二つの頭が怯えたように下がり、まとっていた緑色の炎がみるみるうちに弱々しく消えかけていく。クゥン、と情けない声を出して、巨大な猟犬は男の後ろへと隠れようとした。
「なっ……なんだよ、こいつ」
自分の召喚獣が、魔力を持たないただの薄汚れた男に怯え切っている。そのあり得ない光景に、不良たちは一様に顔を引きつらせた。
ヴァンは、彼らの間をすり抜けるようにして、ただ黙々と前へ歩き続ける。その虚無の瞳が、ふと、壁際に立つセリアの姿を捉えた。
お互いの視線が、雨の降る薄暗い空間で交錯する。
ヴァンの目には、己と同じように世界から拒絶され、行き場を失った孤独な魂が映った。
そして、セリアの深い紫色の瞳には、信じられないほどの驚愕が浮かんでいた。
魔力による防壁を一切持たないのに、己の双頭犬の有毒な炎の熱波を浴びて皮膚一つ焦がしていない強靭な肉体。そして、底知れぬ虚無を抱えた、世界の理から完全に外れたような特異な精神性。
「……あり得ない。これほどまでに、完璧な『器』が……この世界に存在していたなんて」
セリアの小さな唇から、震えるような吐息が漏れた。
社会から無用の長物として捨てられた同化召喚師。その彼女の目の前に、彼女の術を完全に受け入れることができるかもしれない、唯一無二の存在が現れたのだ。
雨は降り続く。不良たちの怒声も、犬の怯える声も、二人の間を流れる静寂な時間には届かなかった。泥濘の底に落ちた二つの孤独な魂が、運命の交差点で初めての接触を果たした瞬間だった。




