第21話 廃棄区画の死闘と鉄血の同化
地下の廃教会で契約を交わしてから数日。セリアの献身的な手当てと、ヴァン自身の異常なまでの回復力により、彼の肉体は実戦に耐えうる状態まで持ち直していた。
二人が最初の仕事として選んだのは、城塞都市の最下層にあるスラム街のギルド出張所に張り出されていた、見向きもされない底辺の討伐依頼だった。
討伐対象は「鉄牙の泥蟲」。
都市の外れにある廃棄区画に異常繁殖した、体長一メートルほどの巨大な多足虫である。動きは鈍く、強力な魔法や毒を持つわけでもないためランクは最低に設定されている。しかし、その甲殻は鋼鉄のように硬く、下級の魔法や並の剣では傷一つすらつけられない。報酬が割に合わないため、正規の冒険者や高位の召喚師からは完全に放置され、スラムの住人たちの生活を脅かし続けている厄介な魔物だった。
冷たい霧雨が降り注ぐ廃棄区画は、都市から吐き出された巨大な鉄屑や、腐敗した建材が山のように積まれる巨大な墓場だった。足元は錆色の汚水と泥が混ざり合い、歩くたびにズブズブと嫌な音を立てる。空気には鉄の錆びた匂いと、泥蟲が放つ独特のアンモニア臭が重く立ち込めていた。
ヴァンは、スラムの屑屋で銀貨数枚と引き換えに手に入れた、刃の欠けた粗悪な鉄剣を右手に提げ、油断のない足取りで泥濘を進んでいた。彼の背後には、厚手の外套を深く被ったセリアが、緊張した面持ちで続いている。
「ヴァン。本当に、このまま実戦で同化を試すのね」
周囲に積まれた鉄屑の山を警戒しながら、セリアが震える声で問いかけた。
「地下の教会で試した時は、安静な状態で魂を受け入れただけだった。でも、今は違うわ。実戦の中で、自らの筋肉を限界以上に行使しながら異界の魂を宿せば、心拍数は跳ね上がり、血流は沸騰する。ただでさえ肉体を引き裂くような同化の負荷が、脳の中で何十倍もの激痛の信号となって増幅されるはずよ。常人なら、その場でのたうち回ってショック死してもおかしくないわ」
セリアの言葉には、過去に自らの術で対象者を破壊してしまった恐怖が色濃く滲んでいた。いくら彼が痛覚を遮断できる特異な器であっても、戦場という極限状態での同化は未知の領域だ。
「問題ない。この身体の痛覚は、勇者パーティーでの行軍でとうに麻痺している。それに、この鈍ら刀で硬い甲殻を割るには、俺自身の筋力だけでは足りないからな」
ヴァンは振り返ることなく、淡々とした声で答えた。彼の口調には、自身の命を危険に晒すことへの恐怖は微塵もなく、ただ目の前の物理的な障害をいかに排除するかという戦士としての合理的な計算だけが存在していた。
その時、前方の鉄屑の山が、ガラガラと崩れ落ちた。
赤茶けた汚水の中から、ぬらりとした黒光りする甲殻が現れる。巨大なムカデに似た不気味な胴体と、人間の腕ほどもある鋭い顎を持った鉄牙の泥蟲だ。一匹だけではない。鉄屑の隙間や泥沼の底から、独特の甲殻が擦れ合うカサカサという耳障りな音を立てて、十数匹もの群れが一斉に姿を現した。
「来るわ、ヴァン。最初は、肉体への負担が一番少ない下級の魂から同化させる。もし少しでも意識が飛びそうになったら、すぐに言って。強制的に術を解除するから」
セリアが両手を胸の前で組み、冷たい霧雨の降る空に向けて詠唱を開始した。
「血と泥にまみれ、数多の戦場を渡り歩きし名もなき傭兵よ。その無骨なる剣技と闘争の記憶を、今この器に宿したまえ」
セリアの言葉に応じ、ヴァンの足元の泥水が赤黒く沸騰し始めた。大気が不自然に歪み、血の匂いが立ち込める。泥の中から、鈍く光る血塗られた魔法陣が展開されると、そこから鎖帷子を纏い、顔を鉄兜で隠した無名の傭兵の幻影が重々しい足音とともに這い上がってきた。
その幻影は、雄叫びを上げながらヴァンの背中へと真っ直ぐに飛び込み、音もなく肉体へと溶け込んでいく。
「同化召喚・鉄血の傭兵」
ドクンッ、という心臓の巨大な鼓動が、ヴァンの全身を打ち据えた。
その直後、ヴァンの肉体に劇的な変化が訪れた。彼の全身の筋肉繊維が一気に膨張し、皮膚のすぐ下に太い血管が青黒く浮き上がる。通常の戦士が一生かけても到達できないほどの異常な筋出力が、異界の魂によって強制的に引き出されているのだ。
セリアは息を飲み、ヴァンの背中を凝視した。過去の対象者たちは、この瞬間に自らの筋肉がちぎれる痛みに耐えかねて悲鳴を上げ、眼球をひん剥いて崩れ落ちた。
しかし、ヴァンは違った。
浮き出た血管から伝わる異常なほどの熱量と、筋肉が引き裂かれそうになる限界の張力を受けながらも、ヴァンの姿勢は一ミリたりともブレていなかった。彼の表情には苦悶の色は一切なく、ただ焦点の定まった鋭い眼差しで、迫り来る泥蟲の群れを冷静に観察している。
痛くないのだ。
肉体が物理的に悲鳴を上げている状況下にあっても、ヴァンの脳は一切の痛覚信号を受け取っていない。それどころか、同化によって引き出された異界の傭兵の「剣術の記憶」と「戦場の勘」を、まるで何十年も使い込んできた自らの技術のように、完璧に筋肉の動きへと最適化させていた。
「嘘……。呼吸すら乱れていない。これほどの負荷を、実戦の中で完全に押さえ込んでいるなんて」
セリアの驚愕の呟きが霧雨の中に消えるより早く、ヴァンが動いた。
ズンッ、と泥を蹴り上げる鈍い音が響き、ヴァンの巨体が砲弾のような速度で泥蟲の群れへと突進する。
先頭の泥蟲が、鋼鉄をも噛み砕く鋭い顎を大きく開き、ヴァンの胴体を両断しようと迫る。
だが、ヴァンの動作は、力任せの戦士のものではなくなっていた。同化した傭兵の記憶が、無駄を完全に削ぎ落とした最短の剣の軌道を導き出す。
ヴァンは姿勢を低く沈め、泥蟲の顎の軌道を紙一重でかわすと同時に、右手の錆びた鉄剣を猛烈な速度で振り抜いた。
ギィンッ。
甲殻と鉄が激突する甲高い音が廃棄区画に鳴り響く。
通常であれば、刃の欠けた鈍ら刀など、鉄の甲殻の表面で弾かれて終わりだ。しかし、同化によって限界を超えたヴァンの筋力と、傭兵の記憶が導き出した「甲殻の最も薄い継ぎ目」を正確に捉える剣技が組み合わさった結果、物理法則を無視した破壊力が生み出された。
泥蟲の硬い頭部装甲が、まるで薄いガラスのように粉々に砕け散り、鈍ら刀がそのまま内部の柔らかい肉を両断して地面まで振り下ろされたのだ。
緑色の体液が噴き出し、頭部を失った巨大な泥蟲が痙攣しながら泥の中に崩れ落ちる。
「……見事な剣の記憶だ。この身体の出力と合わせれば、この程度の甲殻、斬るまでもない」
ヴァンは緑色の体液を浴びながらも、呼吸一つ乱さずに低く呟いた。
彼の異常なまでの強靭な肉体と、痛覚の完全なる遮断。それこそが、セリアの呪われた術を最強の力へと反転させる、この世界にただ一つしか存在しない完璧な器の証明だった。
残る十数匹の泥蟲たちが、警戒するようなカサカサという音を立ててヴァンを取り囲む。
しかし、ヴァンの瞳に焦りは全くない。彼は錆びた剣についた体液を無造作に振り払うと、傭兵の無骨な構えのまま、次なる獲物へと静かに狙いを定めた。




