第198話 浄化された湖畔と、不器用な王の決意
フェザーン王国が産声を上げてから、数週間の穏やかな時が流れた。
王都の喧騒は日を追うごとに活気を増しているが、政務の大部分は宰相たるローランと財務大臣のルミナが完璧に回しており、「象徴」としての役割を求められているヴァンには、拍子抜けするほどに静かで平和な時間が与えられていた。
その日、ヴァンは朝から落ち着かない様子で、王城としてあてがわれた館の廊下をそわそわと歩いていた。
彼のごつごつとした大きな右手は、先ほどからずっと軽鎧のポケットの中にある「小さな木箱」の感触を確かめ続けている。
その木箱の中に入っているのは、王国一の鍛冶師であるガルドに密かに打たせていた、一つの指輪だった。
数日前、ヴァンは一人でガルドの工房を訪ねた。災害級の魔物の素材すら容易く打ち直す屈強な鍛冶師は、ヴァンの依頼内容を聞いて目を丸くした後、ニヤニヤと意地悪く笑いながらも、最高の仕事をしてくれた。
『新大陸の最深部で採掘された、最も純度の高い星脈の水晶だ。嬢ちゃんの魔力波長に合わせて、特別に淡い紫色に発光するように加工してある。……王様よ、戦場じゃ無敵だろうが、こういう舞台じゃ剣は役に立たねえぞ。ビシッと男らしく決めてきな』
ガルドから手渡された指輪の、信じられないほど繊細で美しい仕上がりを見た時のヴァンの胸の高鳴りは、どんな強敵と対峙した時よりも激しかった。
「……よし」
ヴァンは廊下の窓に映る自分の姿を一度だけ確認し、小さく深呼吸をしてから、セリアの私室の扉をノックした。
「ヴァン? どうしたの、こんな朝早くに」
扉が開き、顔を出したセリアの姿に、ヴァンは一瞬だけ言葉を失った。
いつものクラシカルな召喚師のローブではなく、淡い水色を基調とした、清楚で可愛らしい街着のワンピース姿だったからだ。銀色の美しい髪は緩やかに編み込まれ、休日の穏やかな朝の日差しを受けてキラキラと輝いている。
「あ、いや……。その、ローランから今日は完全に非番だと言い渡されてな。もしお前さえ良ければ、少し……出かけないかと思って」
激戦を潜り抜けてきた最強の戦士とは思えないほど、ヴァンの声は不器用に上ずっていた。
セリアは目を瞬かせた後、ふわりと花が咲くような嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ふふっ、もちろんよ。私も今日はルミナからお休みをもらっていたの。どこに行きましょうか?」
「……あの湖畔に、行きたいと思っている。お前と初めて、この新大陸で野営をした、あの場所に」
ヴァンの提案に、セリアの頬がほんのりと桜色に染まった。
あの湖は、まだ新大陸が魔界の瘴気に覆われていた頃、二人きりで背中を預け合い、静かに語り合った思い出の場所だった。当時は淀んだ空と危険な魔物に囲まれていたが、それでも二人にとっては、互いの心の距離が最も近づいた特別な場所であった。
「ええ。行きましょう、ヴァン」
セリアは嬉しそうにヴァンの大きな手を取った。
痛覚を持たない彼であっても、彼女の手のひらから伝わってくる柔らかく優しい温もりだけは、不思議なほどはっきりと感じ取ることができた。
護衛を連れず、二人きりで王都を抜け出した彼らは、新緑に包まれた森の小道をゆっくりと歩いていった。
魔界の扉が完全に封印され、星脈の力によって浄化された新大陸の自然は、息を呑むほどに美しかった。かつて黒く変色していた木々は本来の瑞々しい生命力を取り戻し、足元には見たこともないほど色鮮やかな花々が咲き乱れている。木漏れ日が二人の歩く道を黄金色に照らし、小鳥たちの囀りが穏やかなBGMのように響いていた。
「風が、とっても気持ちいいわね」
セリアが心地よさそうに目を閉じ、胸いっぱいに澄み切った空気を吸い込む。
「ああ。瘴気の欠片もない。お前が命を懸けて繋いでくれたおかげだ」
「私一人じゃないわ。あなたが、ずっと私の前で剣を振るってくれたからよ」
他愛のない、しかし何よりも愛おしい言葉を交わしながら歩くこと数十分。
木立を抜けた二人の目の前に、視界いっぱいに広がる巨大な湖が現れた。
「わあ……っ!」
セリアが歓声を上げ、湖畔へと駆け寄る。
かつてはドス黒く濁っていたその湖は、今や空の青さをそのまま溶かし込んだような、透明度を誇る美しいクリスタルブルーへと姿を変えていた。水面は鏡のように穏やかで、対岸の緑豊かな山々をくっきりと映し出している。湖の周囲には、淡い光を放つ魔法植物が群生しており、まるで幻想の世界に迷い込んだかのような絶景が広がっていた。
「見違えたな。まさか、ここまで美しい場所だったとは」
ヴァンはセリアの隣に立ち、眩しそうに湖面を見つめた。
「ええ。本当に……。あの時、あなたと一緒に見た淀んだ湖も、私にとっては特別だったけれど。今のこの景色を二人で見られることが、何よりも嬉しいわ」
セリアがヴァンを見上げ、紫色の瞳を優しく細めて微笑む。
その無防備で、心の底からの信頼と愛情に満ちた笑顔を前にして、ヴァンの心臓がかつてないほどの早鐘を打ち始めた。
(今だ。今しかない……)
ヴァンはごくりと唾を飲み込み、ポケットの中の木箱を強く握りしめた。
戦場では一瞬の躊躇もなく神仏すら斬り捨てる彼の腕が、今は微かに震えている。
「セリア」
ヴァンは真っ直ぐに彼女へと向き直り、その名を呼んだ。
いつもより低く、真剣な響きを帯びたヴァンの声に、セリアもまた不思議そうに首を傾げ、彼の双眸をじっと見つめ返した。
風が止み、湖畔に完璧な静寂が訪れる。
不器用な戦士が、己の一生を懸けた最大の決意を言葉にするための、甘く、そしてかけがえのない時間が始まろうとしていた。




