第196話 祝祭の前夜、交わり合う多様なる魂
新大陸の夜空に、数え切れないほどの星々が瞬いていた。
かつて紫色の淀んだ雲に覆われ、絶望の気配だけが漂っていたその空は、今や澄み渡るような深い瑠璃色へと変わり、都市を優しく包み込んでいる。
剛角獣の遺骸と金剛樹の木材、そして強固な石材を組み合わせて建造された巨大な防壁の内側には、色とりどりの魔力灯が灯されていた。エルフの繊細な魔力調整とドワーフの精巧な細工が融合して作られたその街灯は、温かみのあるオレンジ色の光を放ち、完成したばかりの石畳の通りを美しく照らし出している。
都市の中央に位置する大広場では、明日の歴史的な式典を前に、すでに前夜祭とも呼べる大規模な宴が始まっていた。
「さあ、どんどん食え! 今夜は俺の厨房のプレオープンも兼ねてるんだ、腹を空かせたまま帰る奴は許さねえぞ!」
広場に面した一際大きなレンガ造りの建物の前で、バクスが巨大な中華鍋を振るいながら吠える。香ばしく焼き上げられた魔猪の厚切り肉、新大陸で採れた新鮮な野菜のグリル、そしてスパイスをふんだんに使った山盛りのパエリアが、次々と大皿に盛られて広場へと運ばれていく。
その周りでは、種族の壁など存在しない光景が広がっていた。
ダークエルフの吟遊詩人が奏でるリュートの軽快な音色に合わせて、人間の職人と獣人の戦士が肩を組み、大きなジョッキを片手に円を描いて踊っている。少し離れたテーブルでは、ドワーフの石工と魔族の兵士が、どちらがより硬い岩を素手で砕けるかという他愛のない腕相撲に熱中し、周囲のハーフエルフや竜人たちが笑いながら声援を送っていた。
かつての世界では、迫害し、奪い合い、憎み合うことしかできなかった者たちが、同じ火を囲み、同じ飯を食い、共に笑い合っている。
「素晴らしい夜だ。何度見ても、夢ではないかと錯覚してしまうよ」
広場の喧騒から少し離れたバルコニーで、透き通るようなワインの入ったグラスを傾けながら、ローランが静かに微笑んだ。
その視線の先には、壁にもたれかかり、腕を組んで広場を見下ろすヴァンの姿があった。ヴァンは相変わらず実用性重視の軽鎧を身に纏い、表情を大きく崩すことはないが、その双眸には確かな安堵と温かな光が宿っている。
「竜人も、人間も、魔族も、エルフも。誰もが互いの違いを認め合い、怯えることなく杯を交わしている。私が隠れ里でどれほど願っても辿り着けなかった理想郷が、今、確かな現実としてここにある」
ローランはグラスを掲げ、ヴァンに向けて深く頭を下げた。
「すべては、君が諦めずに戦い抜いてくれたおかげだ。ヴァン、心から感謝する」
「よせ。俺一人の力じゃない」
ヴァンは短く答え、視線を広場の中心で笑い合う仲間たちへと向けた。
「バクスの飯があって、バルガンの技術があって、ルミナの計算があった。ガロやあんたが皆をまとめてくれたから、この街はできたんだ。俺はただ、目の前の障害を斬って退かしただけに過ぎない」
「ふふっ。相変わらず謙虚というより、無愛想ね」
ヴァンの隣に、二つの温かいお茶の入ったマグカップを持ったセリアが歩み寄ってきた。彼女はクラシカルなローブの裾を揺らしながら、一つのカップをヴァンへと手渡す。
「でも、明日からはそうも言っていられなくなるわよ。なんといっても、あなたはこの街の、いえ、この新しい国の頂点に立つことになるんだから」
「……柄じゃないのは分かっている。俺はただの戦士だ」
ヴァンはマグカップの両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。
「玉座に座って偉そうに踏ん反り返るような真似はできない。政治の難しいことも、ルミナやローランに頼りきりになるだろうな」
「それでいいと、皆が思っているのよ」
セリアがヴァンの隣に並び、彼の肩にそっと寄り添った。
「あなたは誰よりも前で剣を振り、誰よりも泥に塗れて私たちを護ってくれた。権力や私欲に一切興味がないあなただからこそ、すべての種族が心から信頼して背中を預けられるの。誰も、あなたに完璧な為政者なんて求めていない。ただ、私たちの『象徴』として、その揺るぎない背中を見せ続けてほしいのよ」
「セリアの言う通りだ」
ローランも優しく頷く。
「実務は私が宰相としてすべて引き受けよう。財務や流通はルミナがいれば盤石だ。都市の防衛と拡張はバルガン殿が請け負ってくれる。ヴァン、君はただ、これまで通り君の信じる道を歩んでくれればいい」
「……お前らには、敵わないな」
ヴァンは観念したように短く笑い、温かいお茶を一口飲んだ。
広場では、バクスの料理を腹一杯に詰め込んだルミナが、満面の笑みでバルガンやガロと何やら明日の段取りについて熱く語り合っている。彼女の手には、明日の式典で使われるであろう色鮮やかな垂れ幕の束が握られていた。
「ねえ、ヴァン。明日の建国宣言で発表する、この国の名前……覚えている?」
セリアが、夜風に銀色の髪を靡かせながら、そっと尋ねた。
「ああ。エルフの古い言葉から取ったんだったな」
「ええ。『フェザーン』。古いエルフの文献に記されていた、今はもう使われていない言葉だけれど……『自由』と『平等』を意味する、とても美しい響きの言葉よ」
フェザーン。
その言葉を口の中で反芻し、ヴァンは眼下に広がる街の灯りを見つめた。
理不尽に勇者パーティーを追放され、すべてを失ったどん底の日々。痛みを感じない欠陥品だと蔑まれた戦士と、誰にも理解されない術を持つ異端の召喚師。
孤独だった二人が出会い、その手を結び、少しずつ仲間を増やしながら、理不尽な世界を実力で覆してきた。
その果てに辿り着いた、未開の新大陸。神々と魔界の王が激突した絶望の跡地に、今、真の自由と平等を示すフェザーンという名の国が産声を上げようとしている。
「良い名前だ」
ヴァンは力強く頷き、セリアの細い肩を抱き寄せた。
「俺たちが、この手で創り上げた国だ。二度と、あんな理不尽な旧世界のような真似はさせない。ここにいるすべての奴らが、明日も明後日も、当たり前のように笑って暮らせる場所にする」
「ええ。共に歩んでいきましょう、ヴァン。私たちの、フェザーン王国を」
セリアもまた、ヴァンの腕の中で幸福に満ちた笑顔を咲かせた。
夜は静かに更けていく。
広場の喧騒は穏やかな寝息へと変わり、都市全体が明日の歴史的な瞬間を待ちわびるように、優しく深い眠りへとついていった。
そして数時間後。新大陸の東の空が白み始め、希望に満ちた新しい朝の光が、フェザーン王国の真なる建国の日を告げるべく、黄金色の輝きを放ち始めたのである。




