第193話 終戦の朝焼けと、駆けつける絆
世界を覆い尽くしていた漆黒の絶望が霧散し、新大陸の空に本来の青さが戻り始めていた。
分厚く淀んでいた紫色の雲は跡形もなく消え去り、東の水平線から昇る眩いほどの朝陽が、絶海の岸辺を黄金色に染め上げていく。波の音が静かに響き、心地よい潮風が吹き抜ける。そこには、数分前まで星そのものをへし折るような次元の違う死闘が繰り広げられていたとは到底思えないほどの、穏やかで美しい朝の風景が広がっていた。
だが、抉り取られた海岸線と、真っ二つに分断された後方の山脈、そして純白の砂浜を赤く染め上げる無数の血だまりだけが、ここで起きた激絶な戦いの爪痕を無言で物語っている。
「……ヴァン」
血に染まった砂浜の中心で、セリアは自らの膝にヴァンの頭を乗せ、彼の銀色の髪を震える手で優しく撫で続けていた。
彼女の魔力回路は完全に焼き切れ、全身からは限界を超えた代償である血が滲み、呼吸をするたびに肺が焼け焦げるような苦痛が走っている。だが、そんなことよりも、彼女の腕の中で静かに目を閉じている青年のぬくもりだけが、今の彼女にとって世界のすべてであった。
黒曜の鱗鎧の内側で、ヴァンの肉体は凄惨な状態にあった。皮膚は裂け、筋肉は断裂し、骨は砕けている。普通ならば息をしていることすらあり得ないほどの致命傷の数々。
しかし、彼の胸は微かに、だが確かなリズムで上下を繰り返していた。激しい呼吸は落ち着き、その横顔には、これまでの死闘で見せていた修羅のような形相は微塵もない。すべての重荷を下ろし、護るべきものを護り抜いた戦士の、ただ安らかで穏やかな寝顔だけがそこにあった。
「本当によく……頑張ったわね。もう、休んでいいのよ。私たちの、勝ちなんだから……」
セリアの頬を、再び涙が伝う。それはもう血の涙ではなく、澄み切った透明な雫だった。涙がヴァンの冷たい頬に落ちるたび、彼女は愛おしそうにそれを指先で拭い、何度も何度も彼の名前を小さく呼んだ。
同化召喚師である彼女には、治癒魔法を使うことができない。傷ついた彼の体をすぐに癒してあげることはできない己の無力さを噛み締めながらも、今はただ、彼の魂が確かにこの世界に繋ぎ止められているという事実だけで、胸が張り裂けそうなほどの安堵に包真れていた。
ズザザザザッ!
不意に、後方の砂浜を蹴立てて、複数の足音が猛烈な勢いで近づいてくる音が響いた。
「ヴァン! セリア!!」
一番に飛び込んできたのは、竜人の青年ローランだった。彼の背後には、獣人の料理人バクス、ハーフエルフの商人ルミナ、そしてドワーフのバルガンと魔族の剣士ガロが、息をきらして続いている。
都市の絶対防衛結界から飛び出し、戦場の跡地へと駆けつけた彼らは、目の前に広がる光景に言葉を失い、一様に足を止めた。
海は割れ、山は消し飛び、大地は底が見えないほど深く抉り取られている。
まるで神々が戯れに地形を作り変えたかのような、圧倒的な破壊の痕跡。その中心で、血の海の中に座り込むセリアと、彼女の膝で眠るヴァンの姿があった。
「……なんてこった。本当に、あのバケモノを討ち取りやがったのか」
バルガンが、信じられないというように周囲の虚無のクレーターを見渡しながら、呆然と呟く。
「ああ。間違いない。あの次元の違う魔力圧は、完全に消滅している」
ガロもまた、冷や汗を拭いながら、畏敬の念を込めてヴァンの姿を見つめていた。魔界に生きる者として、覇軍大将バルバトスがいかに絶対的な存在であるかを骨の髄まで理解しているガロにとって、目の前で起きた事実はまさに奇跡以外の何物でもなかった。
「ヴァンさん! セリアさん!」
ルミナが堰を切ったように泣き出しながら、砂に足をもつれさせながら二人の元へと駆け寄った。
「馬鹿野郎……ッ! どんだけ無茶しやがれば気が済むんだ、お前らは!」
バクスも目を真っ赤に腫らし、背負っていた巨大な救急箱と、栄養補給のための特製スープが入った水筒を放り出すようにして、ヴァンの傍らに膝をついた。
「バクス……ルミナ。みんな……」
セリアが顔を上げ、仲間たちの顔を見て、ふっと安堵の笑みを漏らす。
「大丈夫よ。ヴァンは……生きてる。すごく深く、眠っているだけ」
「生きてるってレベルじゃねえぞ、この怪我は! セリア、お前は治癒魔法が使えねえんだ。無理に動かすな、俺がすぐに止血と応急処置をする! お前もだ、魔力が完全にすっからかんだろうが! ルミナ、セリアにこれを飲ませろ!」
バクスが手早くヴァンの止血処理を始めながら、ルミナに指示を出してセリアに温かいスープを渡す。
獣人の料理人が、この決戦のために徹夜で貴重な薬草や魔物の骨髄を煮込んで作り上げた、生命力を極限まで高めるための特別な薬膳スープ。ルミナに支えられながらそれが喉を通った瞬間、セリアの冷え切っていた体に、カッと熱い命の火が灯るのを感じた。
「すごい……。体の奥から、温かくなっていく……」
「バクスさんが、お二人のためにずっと火の番をして作っていたんです。ヴァンさんにも、目を覚ましたらたっぷり飲ませてあげなきゃ……!」
ルミナが涙と鼻水を拭いながら、力強く頷く。魔法による治癒ができなくとも、彼らにはこれまでの旅で培ってきた確かな知識と、互いを支え合う絆があった。
ローランは静かにヴァンの前に歩み寄ると、その凄惨な傷跡一つ一つを確かめるように見つめ、そして、深く片膝をついて騎士の礼をとった。
「……私たちの指導者であり、最高の戦士よ。貴方のその傷は、我々すべての民の命を繋いだ証だ。貴方が命を懸けて切り拓いてくれたこの新大陸を、私は何に代えても守り抜き、誰もが平等に笑える国にしてみせる」
竜人の青年の誇り高き誓いの言葉が、朝の海風に乗って響き渡る。
仲間たちの懸命な手当てによって、ヴァンの出血は徐々に治まり、セリアの顔色にも少しずつ赤みが戻り始めていた。
彼らが全員で生還の喜びに浸り、互いの無事を確かめ合っている中、バルガンとガロの二人は、戦場のさらに奥――新大陸の最深部の方角を険しい表情で見据えていた。
「バルガン。敵の総大将は確かに討ち取った。だが……」
ガロが、新大陸の奥地にそびえ立つ、巨大な漆黒の柱を指差す。
「ああ。わかってる。あの『魔界への扉』そのものは、まだポッカリと口を開けたままだ」
バルバトスが消滅した今でも、異次元へと繋がる巨大な門からは、微量ながらもドロドロとした魔界の瘴気が流れ出し続けていた。総大将を失い、軍勢の大部分が消し飛んだとはいえ、門が開いている限り、再び魔界から新たな脅威が溢れ出してくる危険性は完全に拭い去れてはいない。
「ヴァンとセリアの嬢ちゃんが、文字通り命を削ってここまでのお膳立てをしてくれたんだ」
バルガンが、腰に下げていた分厚い革袋から、複雑な金属部品と、淡い光を放つ『星脈の核』の欠片を取り出した。伝説のドワーフの瞳に、職人としての、そして彼らの仲間としての強い決意の炎が宿る。
「ここから先は、俺たち裏方の仕事だ。これ以上、あの二人に世界の重荷を背負わせるわけにはいかねえ」
「……俺も行く。魔界のことは、俺が一番知っている。おっさんの技術があれば、あの扉を力ずくで閉じることもできるはずだ」
ガロが腰の剣に手を当て、バルガンの横に並び立つ。無骨な彼の口調には、自身の知識と力が、今こそ仲間のために役立つという確かな自負が込められていた。
「バクス! ルミナ! ヴァンと嬢ちゃんを頼んだぞ!」
バルガンが振り返り、力強く親指を立てた。
「俺とガロで、あの忌々しい扉の息の根を完全に止めてくる。俺たちが方舟の建造で培った『星脈の核』のシステムを応用すりゃ、次元の穴を塞ぐ物理的な封印式を組み込めるはずだ」
バクスがヴァンの腕に分厚い包帯を巻き終え、ニッと牙を見せて笑う。
「おう、任せとけ! 扉の封印が終わってヴァンが目を覚ましたら、国中の食材を全部ぶち込んだ、とびっきりの祝勝会のメシを作って待ってるからな! 絶対にヘマすんじゃねえぞ、バルガンのおっさん!」
新大陸に降り注ぐ、黄金色の朝焼け。
戦いの余韻と、血よりも濃い仲間たちの絆が交差する中、バルガンとガロは魔界への扉を完全に封印すべく、瘴気の漂う最深部へと力強い足取りで向かっていく。
長きにわたる理不尽な絶望の歴史に、今、本当の終止符が打たれようとしていた。




