第192話 神々の終焉と最後の一撃
魔王の影が虚空へと姿を消した直後、絶海の岸辺に君臨していた「獣神のコア」が、ついに制御不能の暴走を開始した。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……!
巨大な心臓の鼓動にも似た悍ましい脈動が、新大陸の地殻そのものを激しく揺さぶる。主であるバルバトスの意志はすでに完全に失われている。しかし、魔界四天王の命の源であった超高密度のエネルギー体は、死してなお、この星のすべてを道連れにする純粋な破壊の爆弾として臨界点を突破しようとしていた。
周囲の空間が、物理的な限界を超えてひび割れていく。
コアを中心に発生した極大の引力と「虚無」のエネルギーが、絶海の海水を天に向かって逆流させ、砂浜や岩盤を根こそぎ空へと巻き上げていく。光すらも逃れられない漆黒の暗黒空間が形成され始め、たった数秒後には星の半分を抉り取るほどの巨大なブラックホールへと変貌しようとしていた。
「ハァッ……、ハァッ……!」
その絶対的な終焉の渦の真正面に、一人の戦士が立っていた。
ヴァン・アッシュクロフト。かつて勇者パーティーから不要なゴミとして追放され、誰からも期待されなかった戦士。
彼の肉体は、すでに生命活動の限界をとうに通り越している。
絶海の岸辺で魔界の軍勢と激突して以来、果てしなく続いた死闘の中、ただの一度も「二重同化」を解除することなく、相反する神々の魂を強制的に入れ替え続けた代償。全身の筋繊維はズタズタに引き裂かれ、皮膚は弾け飛び、骨は砕け、黒曜の鱗鎧の内側からは夥しい量の血が滝のように流れ落ちていた。
本来であれば、指先一つ動かすことすら不可能な状態だ。肉体が物理的に崩壊していく嫌な音が、彼自身の耳に絶え間なく響き続けている。
それでも、彼は血に染まった愛剣を杖代わりに立ち上がり、眼前に迫る星の終焉から一歩も退こうとはしなかった。
「……セリア」
ヴァンは、背後で自身の体を支えようと必死に涙を流す銀髪の召喚師へ、振り返ることなく静かに呼びかけた。
「あれを斬る。俺の体に、最後の上書きをしろ」
「ヴァン……! でも、これ以上魂を上書きしたら、あなたの体が、本当に……!」
セリアの紫色の瞳から、大粒の血の涙が溢れ落ちる。彼女自身の魔力回路も完全に焼き切れており、肌は透き通るように蒼白だった。これ以上召喚術を行使すれば、己の命の灯火すらも完全に燃え尽きてしまうかもしれない。
しかし、ヴァンの背中を見た瞬間、彼女はすべてを悟った。
彼の闘志は、微塵も折れてはいない。彼が命を懸けて護ろうとしているこの世界を、愛する人たちが笑って暮らせる明日を、こんな理不尽な暴走で終わらせるわけにはいかないのだ。
「……わかったわ。私の命、私の魂のすべてを、あなたに預ける!」
セリアは血の涙を拭うこともせず、震える両手で自らの杖を強く握りしめ、天に向けて突き上げた。
残された自身の全生命力、寿命、魂の輝きすらも強引に魔力へと変換し、彼女は絶海の空に向かって最後の絶唱を響かせる。
「修羅よ退け! 代わって顕現せよ、万物の理を斬り裂き、次元すらも両断する神話の極致! 今、この器にて魂を顕せ! 同化召喚……絶対切断の魔剣士!!」
ヴァンの肉体を包み込んでいた闘神阿修羅の赤黒い闘気が掻き消え、代わって、空間そのものを鋭利な刃に変えるかのような、研ぎ澄まされた漆黒と紫電のオーラが爆発的に噴き上がった。
すべてを無に帰す破壊神シヴァと、万物を両断する絶対切断の魔剣士。
二つの極大の魂が、極限の共鳴を果たしたヴァンの肉体を核として、ついに完全に交わったのだ。
ズガァァァァァァァァァンッ!!
ヴァンの全身から噴き出していた血が、二つの神格の圧倒的な魔力によって瞬時に蒸発し、彼の周囲に赤い霧となって立ち込める。崩壊しかけていた肉体が、破壊と切断の概念によって強引に繋ぎ止められ、次元を超越した神殺しの器へと至る。
手にした武器が、新たな神格の交わりに共鳴し、最も恐ろしく、最も美しい形態へとその姿を変異させた。
装飾の一切ない刃が長く伸び、透き通るような白銀の破壊光と、漆黒の絶対切断のオーラが二重螺旋を描いて纏わりつく、巨大な「破壊と切断の大剣」へと姿を変えた。振るうだけで空間が割れ、触れるものすべての概念を両断し粉砕する、究極の神造兵装。
「……行くぞ」
ヴァンは巨大な大剣を上段に構え、限界を超えた両足の筋肉を爆発させた。
ゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!
その瞬間、獣神のコアが臨界点を突破した。
星そのものを抉り取る極大の「虚無の奔流」が、ブラックホールから真っ直ぐにヴァンに向けて撃ち下ろされる。触れれば最後、分子レベルで世界から消去される絶対死のエネルギー。新大陸を丸ごと飲み込むほどの巨大な暗黒の柱が、すべてを無に帰そうと迫り来る。
「断ち切るッ!!」
ヴァンは虚無の奔流に向かって真っ向から跳躍した。
ズドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!
世界から、一切の音が消失した。
破壊と切断の白銀の刃が、星を飲み込む漆黒の虚無の奔流と正面から激突する。
光と闇。物理的な切断と、概念の消去。相反する究極のエネルギーが新大陸の中心で衝突し、極限の衝撃波が絶海の空気を真空へと変える。
虚無の奔流は、ヴァンの大剣を、そして彼の肉体そのものを削り取ろうと喰らいつく。
「ガアアアアアアアアアアッ!」
ヴァンの全身から再び夥しい血が噴き出し、鎧の内側で骨が砕ける音が響く。凄まじい引力と消去の力が、彼の魂ごと虚無の彼方へ引き摺り込もうとする。
しかし、ヴァンは決して退かなかった。
背後で祈るセリアの魂の温もりが、彼に無限の力を供給し続けている。物理的な距離など関係ない。二人の魂は完全に一つとなり、限界を超えたその先の領域で、絶対的な奇跡の光を放っていた。
「俺たちの……俺たちの未来を、こんな理不尽な絶望で終わらせてたまるかァァァッ!!」
ヴァンが裂帛の気合いと共に、大剣を握る両腕にさらなる破壊と切断の力を込める。
破壊神シヴァの力で虚無の消去力を粉砕し、絶対切断の魔剣士の力が、奔流の構造そのものに物理的な断層を生み出していく。
ギギギギギギギギギギギギギギギギッ!!!
相反するエネルギーの拮抗は、永遠にも似た数秒間の後、ついに破られた。
大剣の刃が、極大の虚無の奔流の中心核を正確に捉え、その絶対的な質量の連鎖を強引に切り裂き始めたのだ。
「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
ヴァンの咆哮と共に、白銀の大剣が一気に振り下ろされる。
ザンッ!!!
世界を終わらせるはずだった星崩壊の虚無の奔流が、大剣の軌道に沿って真っ二つに両断された。
巨大な暗黒の奔流が、ヴァンの左右へと完全に分かたれ、背後の絶海の海面と名もなき山脈へと逸れて激突する。
ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!
逸れた虚無が海と山を丸ごと削り取り、地図の形を永遠に変えるほどの巨大なクレーターを穿った。しかし、ヴァンと、彼が背中に背負う都市の防壁には、ただの一つの傷も付くことはなかった。
絶対の絶望は、今、完全に切り裂かれた。
奔流を両断した凄まじい勢いを一切殺すことなく、ヴァンは白銀の破壊光の尾を引いて、暴走の発生源である「獣神のコア」へと一直線に肉薄していく。
「これで、すべて終わらせるッ!」
ヴァンは大剣を大きく引き絞り、セリアと共に紡いだ二人の魂のすべてを刃の先端に乗せた。
白銀の破壊光と漆黒の切断オーラが螺旋を描きながら、空中に浮かぶ獣神のコアへと真っ直ぐに突き刺さる。
硬質なガラスが割れるような音が響き、大剣の刃がコアの中心を完全に貫通した。
ピキッ……パリンッ!
コアの内側から無数の亀裂が走り、そこから眩いほどの浄化の光が溢れ出す。
破壊神の力がコアを構成する魔力を分子レベルで粉砕し、魔剣士の刃がその存在の概念すらも完全に両断したのだ。
パキィィィィィィィィィィィンッ!!!!
絶海の空気を震わせる甲高い破砕音と共に、獣神のコアが完全に粉砕された。
悪しき光が空中で微塵に砕け散り、暴走していた虚無のエネルギーが跡形もなく霧散していく。魔界の四天王が遺した最後の絶望は、人間の戦士と召喚師の絆の前に、今度こそ完全に、そして永遠に消え去ったのである。
圧倒的な静寂が、新大陸の岸辺に戻ってきた。
空を覆い尽くしていた漆黒の闇が晴れ渡り、淀んでいた紫色の雲が嘘のように消え去っていく。
雲の切れ間から、眩いほどの朝日の光が真っ直ぐに差し込んできた。黄金色の光が、血に染まった純白の砂浜と、激闘を生き抜いた都市の防壁を優しく、そして温かく照らし出す。
「……終わったか」
ヴァンは、コアが消滅した虚空をしばらく見つめた後、ゆっくりと大剣を下ろした。
破壊神と魔剣士の魂が彼の肉体から離れ、武器の形状が本来の白銀の剣へと戻っていく。
それと同時に、極限の魂の共鳴によって強引に押さえ込まれていた肉体の限界が一気に押し寄せた。
「ガ、ハッ……!」
ヴァンの口から血が溢れ出し、両膝がガクリと折れて砂浜に倒れ込む。
薄れゆく意識の中で、彼を強く、そして優しく抱きしめる温かい腕の感触があった。
「ヴァン……! ヴァン、ヴァンッ!!」
血の涙を流し尽くしたセリアが、己の命の限界も顧みず、彼を抱きしめて子供のように泣きじゃくっていた。
限界を超え、感覚すら失われつつある彼の体に、彼女の涙の温もりと、命の鼓動の音だけが、不思議なほどはっきりと伝わってきた。
「……泣くな。俺は……お前が望む限り、絶対に死なない」
ヴァンは震える血塗れの手を伸ばし、セリアの頬の涙を不器用に拭った。
その瞬間、ヴァンの意識は深く、静かな暗闇へと落ちていった。だが、それは死の淵ではなく、すべてを護り抜いた戦士に訪れた、安らかな眠りであった。
魔界の絶望は打ち砕かれた。
追放された戦士と孤独な召喚師が紡いだ軌跡は、神々すらも凌駕し、この世界に誰もが笑って暮らせる確かな未来を切り拓いたのである。
完全なる勝利の朝焼けが、二人の体を祝福するように包み込んでいた。




