第190話 魂の共鳴、極限の果てに砕け散る絶望
絶海の空を覆い尽くす、直径数百メートルにも及ぶ漆黒のブラックホール。
獣神バルバトスが己の存在すべてを還元して生み出した星崩壊の虚無は、ただそこに在るだけで新大陸の地殻を引き剥がし、絶海の海水を天に向かって逆流させていた。周囲の岩盤が音もなく削り取られ、重力という世界の絶対的なルールすらもが完全に崩壊している。光も、音も、温度すらも吸い込む絶対的な終焉の渦。
その圧倒的な暗黒の引力に向かって、ヴァンは血に染まった足で一歩、また一歩と真っ直ぐに歩みを進めていた。
ヴァンの肉体は、物理的な限界をとうに超越している。黒曜の鱗鎧の内側で、幾度もの多重同化に酷使された筋繊維は千切れ、骨は砕け、血管は弾け飛んでいる。足を踏み出すたびにブーツから大量の血が溢れ出し、真っ白な砂浜に痛ましい赤い足跡を刻み込んでいた。
しかし、その絶命していてもおかしくない肉体を強引に繋ぎ止めているのは、背後の結界で祈るセリアと完全に同調した魂から溢れ出す、白銀と紫色の光のオーラであった。
痛覚を持たない戦士の意志と、己の命を削ってでも愛する者を支え抜こうとする召喚師の意志。
理不尽な世界から不要とされ、弾き出された二つの魂が極限の共鳴を果たした時、ヴァンの内に宿る破壊神シヴァと闘神阿修羅の神格は、かつてないほどの絶対的な安定と規格外の出力を放ち始めていた。
「ク、クルナ……! クルナァァァァッ!!」
バルバトスが、残された二つの眼球を見開き、狂乱の叫び声を上げる。
彼は自身の魂を擦り潰し、極大の虚無の回転をさらに加速させた。ヴァンを空間ごと分子レベルで消去しようと、無数の真っ黒な引力の触手がブラックホールの表面からうねりながら伸びてくる。
「行くぞ、セリア」
ヴァンが短く呟く。その声は、物理的な距離を無視してセリアの脳裏へと直接響き渡った。
「ええ、ヴァン。私が……私たちの魂が、あなたの道を切り拓くッ!」
結界の内側で血の涙を流すセリアが、己の命の灯火を最大に燃やし尽くし、魂の接続をさらに強く結びつける。
ヴァンは破滅修羅の三叉神矛を上段に構え、血反吐を吐きながらも、闘神阿修羅の神速のステップで一気に虚無の渦へと肉薄した。
襲い来る無数の虚無の触手。触れれば即座に消滅する絶対死の弾幕に対し、ヴァンは一切の回避行動をとらない。
白銀と紫色のオーラを纏った巨大な矛を一閃する。
ただそれだけで、破壊神シヴァの持つ純粋な破壊の概念が、虚無の触手を空間ごと物理的に粉砕し、真っ黒な霧へと還元していく。
「消え去るのは、お前だ」
ヴァンは引力の暴風を真っ向から引き裂きながら、ついに星を飲み込もうとする極大のブラックホールの真正面へと到達した。
両足で大地を砕くほどに深く踏み込み、全身の筋肉を限界のその先まで収縮させる。
背中に顕現した四本の闘気の腕と、彼自身の両腕。計六本の腕が、一つに融合した三叉神矛を握りしめ、すべての運動エネルギーを矛の先端へと集約していく。
「死ネ! 死ネ死ネ死ネェェェェェッ! 泥虫ゴトキガ、私ノ絶望ヲ越エラレルハズガナイィィィィッ!!」
バルバトスが絶叫と共に、ブラックホールの内部から極太の虚無の奔流をヴァンに向けて撃ち下ろした。
新大陸の地殻を貫通し、星そのものを抉り取る絶対的な消去のエネルギー。
「砕け散れェェェェェェェェッ!!!!」
ヴァンは六本の腕に宿る阿修羅の剛力と、シヴァの究極の破壊光を乗せ、三叉神矛を虚無の奔流の中心点へと向けて渾身の力で突き放った。
激突。
世界から一切の色彩が消失し、純白の閃光と漆黒の暗黒だけが交差した。
虚無の奔流はヴァンの矛を、そして彼の肉体そのものを削り取ろうと喰らいつく。しかし、ヴァンとセリアの共鳴した魂が放つ白銀と紫色の光が、虚無の侵食を完璧に弾き返していた。
「ガアアアアアアアッ!」
ヴァンが血塗れの牙を剥き出しにして、さらに矛を押し込む。
相反するエネルギーの拮抗は、ほんの数秒のことだった。破壊を司る神の矛が、すべてを消去しようとする魔界の理の核を正確に捉え、ひび割れを生じさせる。
パキィィィィィィィィンッ!!!
ガラスが砕け散るような、世界を震わせる甲高い音が絶海に響き渡った。
破壊神の一撃が、ついに星崩壊の虚無を物理的に打ち砕いたのだ。
直径数百メートルに及んでいた漆黒のブラックホールが、中心から亀裂を走らせ、無数の黒い破片となって空中に四散していく。星を飲み込むはずだった絶望の引力が消滅し、逆流していた海水が凄まじい轟音と共に海面へと落下する。
「ウ、ソダ……。私ノ、星ヲモ滅ボス虚無ガ……!」
獣神バルバトスの巨体が、絶望に打ち震える。
自らの存在すべてを賭けた最後の一撃すらも、人間の戦士の執念の前に完全なる粉砕を喫したのだ。
「これで、終わりだッ!」
虚無を砕いた勢いを一切殺すことなく、ヴァンは暴風のような推進力でバルバトスの懐へと深く潜り込んだ。
無防備となった獣神の巨大な胸部。その中心にある、極彩色の魔界の核。
ヴァンは三叉神矛を大きく引き絞り、セリアと共に紡いだ二人の魂のすべてを矛の先端に乗せた。
「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
白銀の破壊光と紫色の魔力が螺旋を描きながら、獣神の胸部へと真っ直ぐに突き刺さる。
鋼よりも硬い漆黒の鱗を穿ち、分厚い肉を引き裂き、三叉の矛先がバルバトスの魔核を完全に貫通した。
「ガ、ア…………」
バルバトスの残された眼球が、信じられないというように自身の胸に突き刺さった矛を見下ろす。
魔核を貫かれた瞬間、破壊神の力が彼の体内へと爆発的に流れ込み、細胞の一つ一つ、魂の残滓に至るまですべてを内側から崩壊させていく。
「私ガ……。美シク、完全ナル私ガ……。泥ノヨウナ、虫ケラニ……」
バルバトスの喉から、ひび割れた呪詛が漏れる。
彼が至上のものとしていた美しさも、他者を圧倒する絶望の力も、目の前の血塗れの戦士の前にすべて打ち砕かれた。
純粋な力と力のぶつかり合い。それは奇しくも、彼が最も嫌悪し、忌み嫌っていた「泥に塗れた野蛮な闘争」そのものであった。
「お前の美学など、知るか。俺はただ、俺の護りたいものを護るだけだ」
ヴァンは矛を深く突き刺したまま、冷徹に言い放った。
その言葉が、魔界の四天王の歴史を締めくくる最後の引導となった。
ピキッ……パリンッ!
バルバトスの七メートルを超える巨体が、足元から急速に石化し、無数の亀裂を走らせていく。
獣神の姿も、本来の美しい人間の姿も、何も残らない。ただの脆い灰の彫像へと変わり果てていく。
『ア、アア…………』
最後に残されたのは、己の存在が消えゆくことへの純粋な恐怖の呻きだけだった。
次の瞬間、絶海に吹き荒れた一陣の風が、石化した獣神の巨体を撫でる。
ザザァァァァァァァァッ……。
魔界の四天王、覇軍大将バルバトスは、崩れ落ちる砂の城のように完全に崩壊し、文字通り塵一つ残さず、絶海の空へと散っていった。
圧倒的な静寂が、新大陸の岸辺に戻ってきた。
空を覆っていた淀んだ紫色の雲が晴れ渡り、雲の切れ間から、眩いほどの朝日が差し込んでくる。
光が、血に染まった砂浜と、激闘を生き抜いた都市の防壁を優しく照らし出した。
「……終わったか」
ヴァンは、獣神が消滅した虚空をしばらく見つめた後、ゆっくりと三叉神矛を下ろした。
闘神と破壊神の魂が彼の肉体から離れ、武器の形状が本来の白銀の剣へと戻っていく。
それと同時に、極限の魂の共鳴によって強引に押さえ込まれていた肉体の限界が一気に押し寄せた。
「ガ、ハッ……!」
ヴァンの口から大量の血が溢れ出し、両膝がガクリと折れて砂浜に倒れ込む。
完全に限界を超えていた肉体は、役目を終えたとばかりに急速に生命活動を停止させようとしていた。薄れゆく意識の中で、視界が急速に暗転していく。
「ヴァン!!」
遠くから、悲鳴のような声が聞こえた。
結界を飛び出し、赤い血の涙で顔を汚したセリアが、自分の命も顧みずに全速力で砂浜を駆けてくる。彼女はヴァンの血に染まった体を抱きかかえ、その胸に顔を埋めた。
「ヴァン……! 嫌よ、死なないで……! 私を置いていかないで!」
セリアの温かい涙が、ヴァンの冷えゆく頬に落ちる。
ヴァンは重い瞼を微かに持ち上げ、心配そうに覗き込む銀髪の召喚師の顔を見つめた。
痛覚のない彼の体には、もう何も感じないはずだった。しかし、彼女の涙の温もりだけは、なぜかはっきりと感じることができた。
「……泣くな。俺は……お前が望む限り、絶対に死なない」
ヴァンは震える血塗れの手を伸ばし、セリアの頬の涙を不器用に拭った。
その瞬間、ヴァンの意識は深く、静かな暗闇へと落ちていった。
魔界の絶望は打ち砕かれた。
しかし、人間の戦士と孤独な召喚師の戦いは、彼らの命を繋ぎ止めるための、新たな奇跡への祈りへと続いていく。




