第188話 虚無の臨界と、顕現せし破壊の頂点
絶海の岸辺は、もはや星の終焉を思わせる完全な暗黒に沈んでいた。
胸部から下顎にかけてを大剣で両断され、漆黒の業火に焼かれたはずの獣神バルバトス。だが、その七メートルを超える巨体は倒れ伏したまま、信じられないほどの高密度な魔力を周囲から吸い上げ始めていた。
ズズズズズズズズッ……!!
空間が物理的に歪み、大気が悲鳴を上げる。バルバトスの無惨に引き裂かれた傷口から、これまでとは次元の違う、底知れない真っ黒な極彩色のエネルギーが球状に膨れ上がっていく。
それは単なる攻撃魔法ではない。周囲の砂浜、岩盤、淀んだ雲、さらには空間に存在する光や温度といった概念すらも「虚無」へと変換し、自らの質量へと取り込んでいく絶対的なブラックホール。魔界の四天王がその身を滅ぼしてでも放とうとしている、星の地殻そのものを抉り取る最強の絶望魔法のチャージであった。
『泥虫ガ……。私ノスベテヲ奪ッテクレタナ。ナラバ、コノ星ゴト虚無ノ淵ヘト沈ンデシマエェェェェッ!!』
獣神バルバトスの六つの眼球が限界まで血走り、狂気に満ちた怨嗟の声を上げる。
膨張を続ける虚無の球体は、すでに直径数十メートルに達しようとしていた。それが臨界点を超えて弾ければ、建国されたばかりの都市はおろか、新大陸そのものが地図から完全に消滅する。
「セリア! 業火を外せ! 空間を切り裂く最速の翼を!」
全身の至る所から血を流し、両腕の骨が軋むヴァンが、一切の躊躇いなく大剣を構え直して叫ぶ。
防壁の内側で、セリアは自身の生命力が魔力と共に削り取られていく激痛に耐えながら、紫色の瞳に決死の覚悟を宿して杖を天へと突き上げた。
「ええ! ケルベロスの魂を解除! 新たなる神格を上書きするわ!」
セリアの銀色の髪が、極限の魔力奔流によって天に向かって激しく逆巻く。
「業火よ退け! 代わって顕現せよ、天空を統べる黄金の翼、悪蛇を裂く神鳥の王! 今、この器にて魂を顕せ! 同化召喚……天空の支配者ガルーダ!!」
ヴァンの肉体を包み込んでいた漆黒の業火が弾け飛び、代わって、暴風を巻き起こす黄金の闘気が、巨大な鳥の双翼のような形をとってヴァンの背後に展開された。
軍神アレスと、天空の支配者ガルーダ。
十度目の魂の上書き。ヴァンの全身の筋肉が断裂し、皮膚が弾け飛んで夥しい血の飛沫が舞い散るが、彼の顔には苦悶の表情一つ浮かばない。
手にした大剣が、黄金の暴風を吸い込んで劇的な変異を遂げる。
極厚だった刀身が極限まで薄く鋭利な形状へと伸び、巨大な三日月型の刃を持つ身の丈以上の双刃の大鎌へと姿を変えた。刃の周囲には、空間そのものを切り裂く真空の刃が幾重にも渦巻いている。
軍神の破壊力と、神鳥の最速の機動力を併せ持つ「狂風軍神の裂空大鎌」。
「切り裂くッ!」
ヴァンが砂浜を蹴った瞬間、黄金の闘気の翼が爆発的な推進力を生み出し、ヴァンの姿は完全に不可視の暴風と化した。
虚無の球体から強烈な引力が発生し、周囲のすべてを吸い込んでいるにもかかわらず、ガルーダの絶対的な航空支配力は引力すらも切り裂いて突き進む。
『サセルカァァァッ!』
バルバトスが残された左腕を振りかざし、虚無の球体から無数の真っ黒な触手を射出した。
触れれば最後、肉体ごと次元の彼方へ消去される虚無の触手群。
だが、ヴァンは空中で姿勢を捻り、狂風軍神の裂空大鎌を神速で旋回させた。
ズバババババババババッ!!!
アレスの闘争心が乗った真空の刃が、迫り来る虚無の触手を次々と細切れに切断していく。削り取られる前に空間ごと触手を物理的に分断し、虚無の力を強引に霧散させる。
ヴァンはそのまま暴風の尾を引いてバルバトスの頭上へと肉薄し、巨大な鎌を虚無の球体の中心に向けて振り下ろそうとした。
しかし、バルバトスの周囲には、すでに虚無のエネルギーが極限まで圧縮された「絶対消去の防壁」が何十層にもわたって展開されていた。
ガガガガガガガガッ!!
裂空大鎌の刃が防壁に直撃するが、黄金の真空刃と虚無の魔力が激しく拮抗し、互いの力を削り合う激しい火花が散る。刃が通らない。このままでは、絶望魔法のチャージが完了してしまう。
「セリア! 翼を外せ! 千の武を!」
ヴァンは空中で大鎌を押し込んだまま、血に染まった唇からさらなる要求を叩きつける。
肉体はすでに限界を超えている。だが、ここで止まればすべてが終わる。
「ええ! ガルーダの魂を解除! 新たなる神格を上書きするわ!」
セリアの目から血の涙が止めどなく流れ落ちる。愛する者の体が壊れていくのをはっきりと感じながらも、彼女は絶対に詠唱を止めない。それが、彼と共に戦うという絶対の誓いだからだ。
「天空よ退け! 代わって顕現せよ、六本の腕で天を支え、闘鬼の如く万軍を打ち砕く修羅の神! 今、この器にて魂を顕せ! 同化召喚……闘神・阿修羅!!」
ヴァンの背後の黄金の双翼が掻き消え、代わって、燃え盛る血のような赤黒い闘気が、ヴァンの背中から新たに四本の巨大な闘気の腕となって顕現した。
軍神アレスと、闘神・阿修羅。
十一度目の魂の上書き。ヴァンの両目から毛細血管が破裂して血が溢れ出し、視界が真っ赤に染まる。全身の骨格が、二つの規格外の闘神の力に耐えきれずに悲鳴を上げる。
手にした裂空大鎌が極限の闘気を取り込み、巨大な鎌が瞬時に六本の鋭利な直刀へと分裂。ヴァンの両腕と、背中から生えた四本の闘気の腕にそれぞれ握り込まれた。
軍神の狂気と、修羅の連撃を併せ持つ「闘鬼軍神の修羅六刀」。
『無駄ダ無駄ダ無駄ダァァァッ!! 私ノ絶望ハ、モハヤ誰ニモ止メラレナイ!!』
バルバトスが狂乱の笑い声を上げ、虚無の球体がさらに一回り大きく膨張する。
「……黙れ」
ヴァンは虚無の防壁の真正面で、六本の直刀を一斉に構えた。
アレスの闘争心がヴァンの筋肉のリミッターを完全に焼き切り、阿修羅の神格が六本の腕に超常的な剣速を付与する。
「オオオオオオオオオオッ!!」
ヴァンが裂帛の気合いと共に、六本の刃による神速の乱れ斬りを開始した。
ズガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!!
一秒間に数百、数千という桁外れの斬撃の嵐。
赤黒い闘気の刃が、残像すらも置き去りにする速度で虚無の防壁をタコ殴りにする。いかに空間を削り取る虚無の防壁であろうとも、削り取る速度を遥かに上回る密度と質量で物理的な破壊を叩き込まれ続ければ、その構造は維持できない。
パリィィィィィィンッ!!
凄まじい連撃の前に、ついに虚無の防壁が最深部まで完全に粉砕された。
バルバトスの巨大な六つの眼球に、信じられないものを見るような驚愕が走る。
「これで……決めるッ!」
防壁を突破したヴァンは、六本の刀を大きく振りかぶり、バルバトスの胸元で膨張を続ける虚無の球体そのものへと刃を突き立てようとした。
しかし、バルバトスは残された最後の理性を総動員し、強引に虚無の球体を爆発させようと魔力を逆流させた。
『道連レダァァァァッ! 泥虫ドモォォォォォォォォッ!!』
「セリアァァァッ! アレスを外せ! すべてを終わらせる破壊を!」
ヴァンは自らの肉体が砕け散ることも厭わず、バルバトスの自爆の閃光に向かって真っ直ぐに突っ込みながら叫ぶ。
「アレスの魂を解除! 新たなる神格を上書きする!」
セリアの意識が遠のきかける。魔力回路は完全に焼き切れ、彼女の口からも血が滴り落ちていた。だが、彼女は最後の命の炎を燃やし尽くすように、虚空を睨みつけて絶唱した。
「軍神よ退け! 代わって顕現せよ、第三の眼で宇宙を焼き尽くし、すべての事象を無に帰す破壊の頂点! 今、この器にて魂を顕せ! 同化召喚……破壊神シヴァ!!」
ヴァンの肉体を覆っていた赤黒い闘気が消失し、代わって、色すらも存在しない、ただ純粋な「破壊の概念」を具現化したような白銀の光が、ヴァンの全身を包み込んだ。
闘神・阿修羅と、破壊神シヴァ。
十二度目の魂の上書き。ヴァンの肉体は、ついにその限界の先すらも通り越した。両腕の皮膚が完全に弾け飛び、剥き出しになった筋繊維から大量の血が噴水のように吹き出す。全身の骨に無数の亀裂が入り、立っていることすら物理的に不可能な状態。
それでも、戦士の意志は、ただひたすらに眼前の敵を打ち砕くことのみに集中していた。
六本の刀が一つに融合し、シヴァの破壊の光を宿した巨大な三叉の矛へと姿を変えた。
装飾の一切ない、ただひたすらに万物を粉砕するためだけの神造兵装。
修羅の連撃と、究極の破壊を併せ持つ「破滅修羅の三叉神矛」。
ヴァンは全身から血の雨を降らせながら、虚無の球体が爆発するその中心点に向けて、巨大な神矛を真っ向から突き出した。
「消え去れェェェェェェェェェェェェェッ!!!!!」
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!
破壊神の矛と、絶望の虚無が完全に正面衝突した。
光と闇、破壊と消去。相反する究極のエネルギーが新大陸の中心で激突し、音という概念そのものが世界から消失した。
世界を削り取ろうとするバルバトスの虚無を、シヴァの持つ「破壊の概念」が物理的に粉砕していく。
『ア、ガ…………。バカ、ナ…………。神ノ似姿タル、コノ私ガ…………』
虚無の球体が内側から崩壊していく中、獣神バルバトスの六つの眼球から、ついに絶望の光が消え失せていく。
神々の入れ替え戦がもたらした極限の連撃。
だが、その代償はあまりにも大きかった。ヴァンの肉体はついに形を保つことすら困難なほどに崩壊を始め、大量の血が絶海の空間を赤く染め上げている。
それでもヴァンは、決して矛を押し込む腕の力を緩めない。セリアもまた、結界の中で血の涙を流しながら、決して魂の接続を解こうとはしなかった。
二人の魂の共鳴が、限界を超えたその先の、極限の領域へと到達しようとしていた。




