第187話 無限の虚無と、軍神と冥犬の業火
絶海の岸辺は、すでにこの世の風景とは呼べない惨状を呈していた。
空は光の届かない完全な漆黒に覆われ、強靭な岩盤や広大な砂浜は、あちこちがすり鉢状に抉り取られて底なしの暗黒を覗かせている。
その中央で、胴体を斜めに両断されたはずの獣神バルバトスが、不気味な震動と共に再び立ち上がろうとしていた。
ズズッ……ボゴォォォォォォォッ!!
切断された巨大な胴体の断面から、極彩色のドス黒い魔力が間欠泉のように噴き上がり、上下に分かたれた肉体を強引に縫い合わせる。フェンリルの絶対零度によって完全に凍結していたはずの細胞すらも、世界を削り取る虚無のエネルギーが強引に消去し、新たな細胞を瞬時に構築していく。
『……コザカシイ。コザカシイコザカシイコザカシイッ!!』
結合を終えた獣神バルバトスが、六つの血走った眼球をそれぞれ別の方向へとギョロギョロと動かしながら、地獄の底から響くような呪詛を吐き出した。
自身の美しい肉体を捨て去るという最大の屈辱を味わいながらも、未だに目の前の人間を消し去ることができない。その事実が、彼の精緻な理性を狂気と憎悪の坩堝へと叩き込んでいた。
バルバトスが巨大な両腕を天に向かって広げる。
直後、彼の周囲数キロにわたる絶海の砂浜が、一斉にジュウジュウと音を立てて黒く変色し始めた。砂そのものが虚無の沼へと変異し、重力を失って次々と空へと浮かび上がっていく。
浮かび上がった無数の砂粒は、空中で極限まで圧縮され、一つ一つが空間を削り取る漆黒の刃へと姿を変えた。
その数、数万、数十万。空を埋め尽くす虚無の刃が、バルバトスの指揮に合わせて一斉にヴァンへと刃先を向ける。
「セリア! 嵐を外せ! 圧倒的な破壊を!」
四方八方を完全に包囲されたヴァンが、血に染まった唇から鋭い声を飛ばす。
防ぐことは不可能。避ける空間すら存在しない。ならば、すべてを物理的に粉砕し、強引に道を切り拓くしかない。
「ええ! スサノオの魂を解除! 新たなる神格を上書きするわ!」
結界の内側で、セリアが限界を超えた魔力回路の激痛に耐えながら、血の涙を振り乱して絶唱する。
「暴風よ退け! 代わって顕現せよ、血湧き肉躍る闘争を司り、すべてを粉砕するオリュンポスの狂戦士! 今、この器にて魂を顕せ! 同化召喚……軍神アレス!!」
ヴァンの肉体を覆っていた蒼黒の暴風が掻き消え、代わって、血のように赤く、底知れない闘争心を具現化したような真紅のオーラが爆発的に噴き上がった。
神喰らいの狼フェンリルと、軍神アレス。
八度目の魂の上書き。ヴァンの筋肉の繊維が内側からブチブチと千切れ、皮膚の裂け目から噴き出した血が、フェンリルの冷気によって即座に赤い氷の結晶となって空中に舞い散る。だが、彼の双眸は微塵の揺らぎも見せず、両腕は新たな闘気に満ち溢れていた。
手にした暴風狼の神殺し大太刀が、軍神の力に共鳴して劇的な変異を遂げる。
長大な一本の刀が中央から二つに分かれ、それぞれが分厚く重厚な刃を持つ巨大な双剣へと姿を変えた。片方の刃からは絶対零度の吹雪が吹き荒れ、もう片方の刃からは軍神の狂気的な破壊の闘気が赤黒い稲妻となって這い回る。
神を喰らう氷と、万物を粉砕する闘争の剣撃を併せ持つ「氷狼軍神の破壊双剣」。
『死ニ絶エロ、泥虫ィィィィッ!!』
バルバトスが両腕を振り下ろすと同時、空を埋め尽くす数十万の虚無の刃が、全方位からヴァンに向けて一斉に降り注いだ。
一本でも触れれば、肉体を削り取られ消滅する絶対死の弾幕。
「砕くッ!」
ヴァンは両足で深く大地を踏み締め、手にした破壊双剣を凄まじい速度で旋回させた。
軍神アレスの闘争心がヴァンのリミッターを完全に破壊し、人間の限界を遥かに超えた神速の連撃を繰り出させる。
ガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!!
赤黒い闘気と絶対零度の吹雪が巨大な竜巻となってヴァンを包み込む。
襲い来る虚無の刃が双剣の軌道に触れた瞬間、フェンリルの冷気が空間削りの力を一瞬だけ凍結させ、その硬直をアレスの破壊の闘気が物理的に粉砕していく。
数十万の刃が次々とガラスのように砕け散り、黒い粉となって消滅していく。
ヴァンは防御に留まらず、双剣の旋回を維持したまま、虚無の弾幕の中を強引に前進し始めた。赤い氷の結晶を散らしながら、一歩、また一歩と獣神の懐へと突き進む。
『ナゼダ……ナゼ私ノ虚無ガ、タダノ剣撃ニヨッテ砕カレル!?』
バルバトスが驚愕と焦燥に六つの眼球を見開き、さらに魔力を注ぎ込んで虚無の刃を生成し続ける。
しかし、軍神の力を得たヴァンの前進は止まらない。
「シィィィッ!」
ヴァンは双剣の旋回から一転、両腕を大きく広げ、前方の空間ごと虚無の弾幕をX字に切り裂いた。
赤と白の巨大な斬撃が、バルバトスの前面に展開されていた虚無の刃を完全に粉砕し、獣神の巨大な胴体へと直撃する。
ズバァァァァァァァァァァァァンッ!!!
鋼の鱗が砕け散り、バルバトスの胸部に深くX字の裂傷が刻まれた。
さらにアレスの破壊の闘気が傷口から内部へと浸透し、獣神の巨体を内側から激しく爆ぜさせる。
『ガハァッ!?』
バルバトスが大量の黒い血を吐き出しながら、数十メートル後方へとたたらを踏んだ。
だが、獣神の反撃もまた、常軌を逸していた。
後退しながらも、バルバトスは胸元まで裂けた巨大な顎を大きく開き、その奥底に極大の虚無のエネルギーを圧縮し始めたのだ。
同時に、彼の六つの眼球がそれぞれ独立して動き、ヴァンを六方向から完全にロックオンする。
『逃ガサン……! 貴様ダケハ、絶対ニ虚無ノ彼方ヘト消シ飛バシテヤル!!』
バルバトスの六つの眼球から、一条の光すらも吸い込む真っ黒な「虚無の閃光」が一斉に放たれた。
それは直線的な攻撃ではない。六本の閃光がそれぞれ意思を持っているかのように不規則な軌道を描き、ヴァンの前後左右、さらに頭上と足元の空間を削り取りながら迫り来る。
「セリア! 氷を外せ! 地獄の炎を!」
ヴァンは神速のステップで閃光を躱しながら、背後へと次の神格を要求する。
絶対零度の凍結では、あの六方向からの不規則な閃光をすべて相殺しきれない。空間そのものを焼き尽くすほどの、圧倒的な熱量と制圧力が不可欠だった。
「ええ! フェンリルの魂を解除! 新たなる神格を上書きするわ!」
セリアが血に染まった杖を天に掲げ、裂けた唇から魂を絞り出すような詠唱を紡ぐ。
「氷雪よ退け! 代わって顕現せよ、冥府の門を護りし三つ首の魔犬、罪人を焼き尽くす地獄の業火! 今、この器にて魂を顕せ! 同化召喚……冥界の番犬ケルベロス!!」
ヴァンの肉体を包んでいた白銀の冷気が掻き消え、代わって、空間そのものをドロドロに溶かすほどの極悪な超高熱の漆黒の炎が、巨大な火柱となって爆発的に噴き上がった。
軍神アレスと、冥界の番犬ケルベロス。
九度目の魂の上書き。ヴァンの全身から噴き出す血が、現れた漆黒の業火によって瞬時に蒸発し、彼の周囲に赤い霧となって立ち込める。呼吸器は焼け焦げ、両腕の骨は無数の亀裂を走らせているが、ヴァンの闘志は限界を知らずに膨張し続ける。
手にした氷狼軍神の破壊双剣が、地獄の業火を吸い込んで劇的な変異を遂げる。
二振りの剣が再び一つへと融合し、巨大な身の丈を超える一本の極厚の大剣へと姿を変えた。その刀身の先端は三つの鋭利な牙のように分かれ、それぞれから空間を歪ませるほどの漆黒の業火が激しく吹き出している。
軍神の破壊力と、冥界の番犬の業火を併せ持つ「冥狼軍神の業火大剣」。
迫り来る六本の虚無の閃光に対し、ヴァンは大剣を上段に構え、ケルベロスの三つの頭を象徴する三連撃を神速で繰り出した。
「燃え尽きろォォォッ!」
ズバァァァァァァァァァァァンッ!!!
大剣から放たれた三つの漆黒の業火の斬撃が、空中で六本の虚無の閃光と真っ向から激突する。
虚無は業火を削り取ろうとするが、冥界の番犬の炎は物理的な燃焼現象を超越した「罪を焼く概念の炎」であった。虚無の魔力そのものを燃料にして燃え上がり、空間を削り取る力を強引に焼き尽くしていく。
凄まじい爆発が絶海の空気を引き裂き、六本の虚無の閃光がすべて漆黒の炎に飲み込まれて霧散した。
『馬鹿ナ……! 私ノ虚無ガ、炎ニ焼カレタトイウノカ!?』
バルバトスが驚愕に硬直する。
その隙を、ヴァンは決して逃さない。爆炎の煙を突き破り、軍神アレスの圧倒的な推進力で獣神の正面へと一気に肉薄した。
「これで、九つ目だ!」
ヴァンは冥狼軍神の業火大剣を大きく背後に振りかぶり、全身の筋繊維を限界のその先まで収縮させた。
アレスの破壊の闘気と、ケルベロスの漆黒の業火が、大剣の三つの切っ先に極限まで凝縮されていく。
『サセルカァァァッ!!』
バルバトスが巨大な顎を全開にし、圧縮を終えていた極大の虚無のブレスを至近距離から放とうとする。
だが、ヴァンの踏み込みの方が僅かに早かった。
「砕け散れェェェェッ!」
ドグシャァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!
ヴァンの放った渾身の袈裟斬りが、虚無のブレスが放たれる直前のバルバトスの巨大な下顎を、根元から完全に打ち砕き、そのまま胸部の中央までを一刀両断に斬り裂いた。
漆黒の業火が獣神の体内へと爆発的に流れ込み、ドス黒い魔界の血液と内臓を瞬時に消し炭へと変えていく。
『ガ……ァァァ…………ッ!?』
バルバトスの六つの眼球が限界まで見開かれ、巨大な顎を砕かれたことで声にならない悲鳴が空気を震わせる。
七メートルを超える獣神の巨体が、胸部から漆黒の炎を激しく噴き上げながら、絶海の砂浜へと三度目のダウンを喫した。
ズドォォォォォォォォォォンッ!!!
新大陸全体を揺るがすような地響きと共に、もうもうたる黒煙が立ち込める。
ヴァンは大剣を振り抜いた姿勢のまま、動かない。
彼の肉体はもはや、人間の限界を遥かに通り越していた。鎧の隙間という隙間から赤い血が流れ続け、立っていることすら奇跡に近い状態。
結界の内側で、セリアもまた、極限の魔力消費により意識を失いかけていた。
だが、空の漆黒は晴れない。
倒れ伏した獣神の残骸から、これまでとは比較にならないほど密度を増した、世界の終わりを告げるようなおぞましい魔力が、ゆっくりと、しかし確実に膨張し始めていた。
獣神バルバトスは、自らの命を完全に投げ打ってでも、この星そのものを虚無の彼方へと消し去るための、最後の絶望の準備を始めていたのである。




